Michael&Wesley Snipes&JB&Spike Lee その1
ウェズリー・スナイプス
今彼はスパイク・リー監督とジェームズ・ブラウンの伝記映画に取り組んでいます。
2006年から浮上しているこの話だけれど、予算の問題やらなんやらで難航している様子。
でも、2012年中には完成させたい意向だそう。
とても待ち遠しい。
Wesley Snipes
James Brown
Spike Lee
彼らはマイケルと深い関わりがある人たちですから。
ウェズリーは映画「メジャーリーグ」「ジャングル・フィーバー(監督Spike Lee)」で一躍脚光を浴びましたが、「メジャーリーグ」出演の1年前、マイケルの「BAD」のSFに出演しました。
実はそのときにSpike Leeの目に留まったと言われています。
BAD のSFでマイケルは、巨匠マーティン・スコセッシを監督に迎え、Thrillerを上回る長編(17分)作品を製作しました。
当時はわたしも全くわかっていなくて、今までの優等生イメージを払拭したいのかなぁなどと的外れなことを感じていましたが、よくよく考えれば、ここでいう「BAD」には単に「ワル」という意味だけではなく、いろいろな意味が含まれているのですね。
前半のストーリーには原案があり、それはある黒人の少年がストリートギャングから「仲間になりたいならビールを盗んで来い」と言われ、「ワル」に憧れた少年が勇気を履き違えて本当に店に盗みに入り、その場に居合わせた私服警官に射殺された実話がもとになっています。
Who's BAD
悪いのは誰だ?
射殺した警官か、盗みをした少年か、それとも少年に命令したギャングか。
マイケルはこの話を発展させ、元は悪さもしていたけれど、努力をしてまっとうな生き方を目指すようになった少年が、「ワル」を気取った友人達によってトラブルに巻き込まれるストーリーにします。
ご自身も著書(MOON WALK)で「お前はワルだというけれど、僕とお前のどちらがBADだ?どちらがBESTなんだ?強く正しく生きようとする人間こそが本当のBADなんだ」という意味をこめたと書いています。
ウェズリーで思い出して、あらためて「BAD」のフルバージョンSFを観ると、当時気がつかなかったことがいくつもあって、そして実は根底にはその後の「Black or White」に繋がるようなメッセージを感じたのです。
私立のプレッピー学校、クリスマス休暇で寄宿舎暮らしの生徒達がおのおの故郷へ帰ります。
白人の生徒ばかりがごった返している校内に、マイケル扮するダリルはいます。
楽しい学校生活だということは、白人の友人達と笑顔ではしゃぐ彼から容易に想像できます。
この歴史のありそうな規律の厳しい優秀な人間の集まる学校では、人種に関してのネガティブな発想自体が、その人物の品格を下げることを生徒達は認識しているかのように、わたしには思えました。
なぜなら、白人の友人がダリルに、彼の優秀な成績に対して賛辞を伝えるシーンがあるのですが、「今期は頑張ったな」とつい上から目線的な発言のあと、すこしばつが悪そうな感じ、白人の自分がこんな風にダリルを評価するような言い方をしてしまったことが、彼を傷つけたんじゃないかと心配しているような、「僕がこんな風に言っても気にしないでくれよ」的に「君を誇りに思うよ」と付け加えます。
ひょっとしたら、この友人とは過去に何かあったのかもしれません。
そんなあからさまではないのだけど、微妙なかしこまった感を感じる。
このかしこまった感は、目には見えない距離感を感じさせるためのスコセッシの演出かも。
故郷へ向かう汽車。
同じ学校の、おそらく少数であろう黒人の生徒とは、長く同じ車中にいるものの言葉を交わさず、最後に「Be a man」一人前の男でいようと言い合って別れます。(勇気を持つことの象徴にも使われる言葉です)
この言葉がわたしにはとても重要な伏線に思えました。
ようやく自分の街に戻ったダリルを笑顔で迎えてくれる3人の幼馴染。
そのリーダー格がウェズリーです。

彼らから昔のようにやんちゃをしようと誘われても、すでにダリルはそんな行為をカッコいいとも度胸があることとも思えなくなっていました。
幼馴染にすれば、「変わってしまった」ダリル。
ダリルにすれば、「何も変わらない」友人たち。
ダリルと彼らの間に徐々に生まれていく微妙な意識の違い。
そのずれは埋まるどころか言葉を交わせば交わすほど広がっていきます。
ダリルは自分のママがクリスマスであっても、おそらく自分の学費のために必死で遅くまで働いてくれる現実を、逆を言えばクリスマスでさえ必死に働かなくては、今の学校に通えない現実を思って、本当の意味で強くて正直でまっとうな男になって、(Be a man)早くママを楽にしてやりたいという気持ちが、この環境に帰ってきたことによって、さらに強くなったでしょう。
かつあげや盗みなどでその場しのぎの欲を埋めても、結局むなしい、そんな風に人生をあきらめて生きるなど真っ平ごめんだと思ったはずです。
ハーレムであろうその地域の通りには、ドラッグのディーラーがうろうろする事など珍しい光景ではない。
面白いのはこの足の悪いディーラーの服装が、ダリルとよく似ていることです。
一歩間違えばダリルもそんな商売に手を染める可能性があったことを、いや、まだあるということを暗に示している演出に思えました。

そして、さらにはそんなディーラーが隠し持つ銃の鈍い光は、商売だけではなく下手をすれば、いつでも抗争に巻き込まれかねない現実を少年達に教えるのでした。
ウェズリー扮する幼馴染は、その瞬間おそらくダリルに言いようのない嫉妬と怒りと寂しさを感じたのではないかと思うのです。
ヤツは確実にこのハーレムから、希望の持てない世界から、抜け出る一歩を踏み出している
自分達と同じ黒人なのに、ヤツは白人のお坊っちゃんなんかに迎合してやがる
同じ環境で同じテンションで理解しあっていたのに、今はもうヤツの考えはわからねぇし、ヤツもおれ達をわかろうとしない
ダリルも彼らがいつまでも「悪さ」をすることで、それが男らしさや黒人同士の仲間意識にすげ替えようとする事に苛立ちを隠しません。
それは勇気でも男らしさでもない
そういう生き方を本当にお前達は望んでいるのか?
本当の男でいよう(Be a man)、Brother!
強さというのは力があるなしではなく、ましてや暴力で示すことなんかじゃないんだ!
さらにカモにしようとした移民の老人をダリルが逃がしたことで、お互い一気に不満が爆発し、ダリルは「ワルってなんだ?本当のワルが何かわかっているのか?お前なんか何にもわかっていない!本当のワルってものを」といって、多人種(白人・黒人・アジア系)のギャングチームを率いて、あのミュージカル・ウエストサイドストーリーを随所に感じる圧倒的なダンスパフォーマンスで、幼馴染たちに迫るのです・・
このSF撮影時のエピソードをウェズリーは語っています。GQ magazine interview(ソース)
マイケルは、ハーレムで少し怖がっていたと思う。
僕らは通りを手をつないで歩いていた。
まるで「頑張れ、マイケル。心配するな、Brother、俺にまかせろ」みたいな。
僕はあの時、俳優から彼のボディガードになったんだ。
みんな彼の名前を大声で呼んでいた・・彼に好意的なのや、そうじゃないものもあったよ。
マイケルがこの通りにいるのをうれしく思った人もいた。
でも中には、「YO、マイク、この通りからさっさと出て行けよ。俺たちはお前にゃ何も感じないのさ。F**king Michael Jackson」みたいなね。
彼らは通りの向こうから叫んでいた。マイケルにも聞こえた。
彼らは自分達とマイケルの間に隔たりがあると感じたんだ。
きっとマイケルが黒人のコミュニティから出て行ったかのように感じていたんだよ。
マイケルは僕に振り返って言ったよ。「君は怖くない?」僕は「何?何が怖い?」みたいな感じだった。
「あのね、あの人達みんな。君は怖くないの?」
「ノー、マイク。僕はここで育ったんだ。大丈夫だよ。君は怖いのかい?」と聞くと
彼は、「うん、すこしね」って言ったんだ。
------------------------------------------
マイケルは演じたダリルという役柄同様に、同胞から非難されるという現実に直面していたということです。
この頃、すでに彼の尋常性白斑は彼の褐色の色素を変化させていて、世間も薄々その変化(理由はわからずとも)に気がつきだした頃でした。
「黒人のくせに」
白人からは、世界的に成功し名声も富みも白人以上に手に入れだした彼への反感がこの言葉に表れ、
黒人からは、自分達の可能性を示すヒーローから一転、肌が不自然に白くなりつつある彼が、まるで自分達の誇りを捨てて、白人社会に迎合しているという反発をこの言葉に込められ。
意味は違えど、どちらからもこんな言葉を投げられ始めた彼は、どれだけ傷ついたか。
しかし、この島国に住んでいるかぎり、もともと黄色人種がほとんどで、そのことでおおっぴらに差別を受けるような環境ではないわたしなどには考えも及ばないような、肌の色に伴う確固たる意識が歴然と彼の国には存在していたわけです。
マイケルにとってそれを引き合いに出されたり、それを面と向かって言われることが一番辛かったはずです。
なぜなら、彼は人一倍自分の人種に誇りを感じていたからです。
彼が読書家で博識なのは有名ですが、彼の蔵書には黒人の歴史や差別に関連する本もとても多い。
<参考>ジュリアンズオークションから出品されている彼の蔵書の一部

上から「THE AUTOBIOGRAPHY OF MALCOM X(マルコムX自伝)」
「LINCOLN'S DEVOTIONAL(リンカーンの祈り)」
「THE NEGRO CARAVAN」黒人史
「BLACK HEROES of the 20th Century(20世紀の黒人の英雄たち)」
「WITHOUT SANCTUARY」
最後の「ウィズアウトサンクチュアリ」は2000年に出版されたものですが、中身は20世紀初頭にアメリカで行われていた白人による見世物の為の黒人リンチ、その模様を土産用の絵葉書として公然と売買されていたという身も凍るような現実があり、そんな過去の証拠であるリンチ写真を集めた写真集です。
人種の違いの意識がいかに悲惨なものであったか、いかに常軌を逸したものであったか。
恐ろしいのはそのコミュニティではこの黒人へのリンチがごく日常のものであったという、当時の人々の人種における考え方でしょう。
KKKなどの白人至上主義が幅をきかせていた時代・・
マイケルはこの本のページの空白に"Wow, Sad, Wrong, Hateful, and Sick 悲しい・・間違っている・・ひどい・・うんざりだ”など、憤りの言葉達を残しています。
公民権運動の旗手に代表されるマーティン・ルーサー・キング牧師の有名な「I Have a Dream」の演説で知られるワシントン大行進(アメリカ合衆国のワシントンD.C.で行われた人種差別撤廃を求めるデモ)が行われたのは、マイケルが5歳の時。
彼にとって黒人の地位向上の軌跡が、はるか昔に完了している事ではないことは充分知っていました。
だからこそ黒人を自由に導く為に戦ったリーダーを心底尊敬し、自らのルーツをしっかりと心に刻んでいた人でした。
なのに、黒人からも白人からも肌の色が元で非難されるという憂き目にあった彼が、たどり着いた結論。
本当は人種や肌の色が何であってもそれにすりかえているだけで、実は人間の持つ他者への無知、無理解、嫉妬から引き起こされる「憎しみ」という感情が一番怖くて恐ろしいことではないか。
肌が何色であっても、桁外れのスーパースターとなった彼に対する嫉妬やねたみ。
もしくは憧れても届かない絶望からの反動。
それらがいつしか人種というフィルターをかけて、それぞれの人種がそれぞれの理由をつけて彼を非難したとしたら。
ひょっとしたらウェズリーと一緒に通りを歩いた時にも、それを感じたのではないかとも思えてしまうのです。
彼が怖かったのは単純に「ハーレムという場所にいる粗暴な人」ではなかったのでは・・と。
人種や肌の色というフィルターは実は問題ではない。
誇りを持つことと、人種に縛られることとは別なのだと。
白人からも黒人からも、彼の外見とアイデンティティがアンバランスだと非難された彼だからこそ、のちの「Black or White」で「黒か白かなんて関係ない」というはっきりとしたメッセージを打ち出せたのだと思えるのです。
外側のフィルターを通して判断することが、そもそも無知であり、それが偏見につながり恐れを呼び、いずれは憎しみに発展してしまうような愚かなことはもう止めようと。
彼は自分が黒人であることに誇りを持っていたけれど、だからと言ってそれが他の人種を蔑視することにつながることを憎んだのでした。
逆を言えば、黒人であるがゆえに軽くあしらわれたり、いわれのない処遇を受けたときは先頭に立って抗議しました。
いつも根底には表向き人種問題に見える、実は根深い人間の嫉妬心や偏見こそ憎むべきものだと伝えたかったのではないかと思うのです。
一見カッコよく見えるものがカッコいいとは限らない。
男らしい男ってなんだ?
白人だから黒人だから、なんなんだ?
外側だけで判断して、いろいろなものを取り違えたり履き違えたりしてはいけない。
勇気を取り違えるな。
強さを履き違えるな。
優しさは弱さなんかじゃない。
本質を知ろう。それが一番大切なこと。
ウェズリーのエピソードは、BADに込められた彼の思いを、こんなふうに解釈させるものとなりました。
勝手に長々書いてしまったけれど、作品の解釈を見る側に委ねていた彼ですから、許してくれるかなw
実はまだ続くのですが、長くなりすぎたので今日はこの辺で。
今彼はスパイク・リー監督とジェームズ・ブラウンの伝記映画に取り組んでいます。
2006年から浮上しているこの話だけれど、予算の問題やらなんやらで難航している様子。
でも、2012年中には完成させたい意向だそう。
とても待ち遠しい。
Wesley Snipes
James Brown
Spike Lee
彼らはマイケルと深い関わりがある人たちですから。
ウェズリーは映画「メジャーリーグ」「ジャングル・フィーバー(監督Spike Lee)」で一躍脚光を浴びましたが、「メジャーリーグ」出演の1年前、マイケルの「BAD」のSFに出演しました。
実はそのときにSpike Leeの目に留まったと言われています。
BAD のSFでマイケルは、巨匠マーティン・スコセッシを監督に迎え、Thrillerを上回る長編(17分)作品を製作しました。
当時はわたしも全くわかっていなくて、今までの優等生イメージを払拭したいのかなぁなどと的外れなことを感じていましたが、よくよく考えれば、ここでいう「BAD」には単に「ワル」という意味だけではなく、いろいろな意味が含まれているのですね。
前半のストーリーには原案があり、それはある黒人の少年がストリートギャングから「仲間になりたいならビールを盗んで来い」と言われ、「ワル」に憧れた少年が勇気を履き違えて本当に店に盗みに入り、その場に居合わせた私服警官に射殺された実話がもとになっています。
Who's BAD
悪いのは誰だ?
射殺した警官か、盗みをした少年か、それとも少年に命令したギャングか。
マイケルはこの話を発展させ、元は悪さもしていたけれど、努力をしてまっとうな生き方を目指すようになった少年が、「ワル」を気取った友人達によってトラブルに巻き込まれるストーリーにします。
ご自身も著書(MOON WALK)で「お前はワルだというけれど、僕とお前のどちらがBADだ?どちらがBESTなんだ?強く正しく生きようとする人間こそが本当のBADなんだ」という意味をこめたと書いています。
ウェズリーで思い出して、あらためて「BAD」のフルバージョンSFを観ると、当時気がつかなかったことがいくつもあって、そして実は根底にはその後の「Black or White」に繋がるようなメッセージを感じたのです。
私立のプレッピー学校、クリスマス休暇で寄宿舎暮らしの生徒達がおのおの故郷へ帰ります。
白人の生徒ばかりがごった返している校内に、マイケル扮するダリルはいます。
楽しい学校生活だということは、白人の友人達と笑顔ではしゃぐ彼から容易に想像できます。
この歴史のありそうな規律の厳しい優秀な人間の集まる学校では、人種に関してのネガティブな発想自体が、その人物の品格を下げることを生徒達は認識しているかのように、わたしには思えました。
なぜなら、白人の友人がダリルに、彼の優秀な成績に対して賛辞を伝えるシーンがあるのですが、「今期は頑張ったな」とつい上から目線的な発言のあと、すこしばつが悪そうな感じ、白人の自分がこんな風にダリルを評価するような言い方をしてしまったことが、彼を傷つけたんじゃないかと心配しているような、「僕がこんな風に言っても気にしないでくれよ」的に「君を誇りに思うよ」と付け加えます。
ひょっとしたら、この友人とは過去に何かあったのかもしれません。
そんなあからさまではないのだけど、微妙なかしこまった感を感じる。
このかしこまった感は、目には見えない距離感を感じさせるためのスコセッシの演出かも。
故郷へ向かう汽車。
同じ学校の、おそらく少数であろう黒人の生徒とは、長く同じ車中にいるものの言葉を交わさず、最後に「Be a man」一人前の男でいようと言い合って別れます。(勇気を持つことの象徴にも使われる言葉です)
この言葉がわたしにはとても重要な伏線に思えました。
ようやく自分の街に戻ったダリルを笑顔で迎えてくれる3人の幼馴染。
そのリーダー格がウェズリーです。

彼らから昔のようにやんちゃをしようと誘われても、すでにダリルはそんな行為をカッコいいとも度胸があることとも思えなくなっていました。
幼馴染にすれば、「変わってしまった」ダリル。
ダリルにすれば、「何も変わらない」友人たち。
ダリルと彼らの間に徐々に生まれていく微妙な意識の違い。
そのずれは埋まるどころか言葉を交わせば交わすほど広がっていきます。
ダリルは自分のママがクリスマスであっても、おそらく自分の学費のために必死で遅くまで働いてくれる現実を、逆を言えばクリスマスでさえ必死に働かなくては、今の学校に通えない現実を思って、本当の意味で強くて正直でまっとうな男になって、(Be a man)早くママを楽にしてやりたいという気持ちが、この環境に帰ってきたことによって、さらに強くなったでしょう。
かつあげや盗みなどでその場しのぎの欲を埋めても、結局むなしい、そんな風に人生をあきらめて生きるなど真っ平ごめんだと思ったはずです。
ハーレムであろうその地域の通りには、ドラッグのディーラーがうろうろする事など珍しい光景ではない。
面白いのはこの足の悪いディーラーの服装が、ダリルとよく似ていることです。
一歩間違えばダリルもそんな商売に手を染める可能性があったことを、いや、まだあるということを暗に示している演出に思えました。

そして、さらにはそんなディーラーが隠し持つ銃の鈍い光は、商売だけではなく下手をすれば、いつでも抗争に巻き込まれかねない現実を少年達に教えるのでした。
ウェズリー扮する幼馴染は、その瞬間おそらくダリルに言いようのない嫉妬と怒りと寂しさを感じたのではないかと思うのです。
ヤツは確実にこのハーレムから、希望の持てない世界から、抜け出る一歩を踏み出している
自分達と同じ黒人なのに、ヤツは白人のお坊っちゃんなんかに迎合してやがる
同じ環境で同じテンションで理解しあっていたのに、今はもうヤツの考えはわからねぇし、ヤツもおれ達をわかろうとしない
ダリルも彼らがいつまでも「悪さ」をすることで、それが男らしさや黒人同士の仲間意識にすげ替えようとする事に苛立ちを隠しません。
それは勇気でも男らしさでもない
そういう生き方を本当にお前達は望んでいるのか?
本当の男でいよう(Be a man)、Brother!
強さというのは力があるなしではなく、ましてや暴力で示すことなんかじゃないんだ!
さらにカモにしようとした移民の老人をダリルが逃がしたことで、お互い一気に不満が爆発し、ダリルは「ワルってなんだ?本当のワルが何かわかっているのか?お前なんか何にもわかっていない!本当のワルってものを」といって、多人種(白人・黒人・アジア系)のギャングチームを率いて、あのミュージカル・ウエストサイドストーリーを随所に感じる圧倒的なダンスパフォーマンスで、幼馴染たちに迫るのです・・
このSF撮影時のエピソードをウェズリーは語っています。GQ magazine interview(ソース)
マイケルは、ハーレムで少し怖がっていたと思う。
僕らは通りを手をつないで歩いていた。
まるで「頑張れ、マイケル。心配するな、Brother、俺にまかせろ」みたいな。
僕はあの時、俳優から彼のボディガードになったんだ。
みんな彼の名前を大声で呼んでいた・・彼に好意的なのや、そうじゃないものもあったよ。
マイケルがこの通りにいるのをうれしく思った人もいた。
でも中には、「YO、マイク、この通りからさっさと出て行けよ。俺たちはお前にゃ何も感じないのさ。F**king Michael Jackson」みたいなね。
彼らは通りの向こうから叫んでいた。マイケルにも聞こえた。
彼らは自分達とマイケルの間に隔たりがあると感じたんだ。
きっとマイケルが黒人のコミュニティから出て行ったかのように感じていたんだよ。
マイケルは僕に振り返って言ったよ。「君は怖くない?」僕は「何?何が怖い?」みたいな感じだった。
「あのね、あの人達みんな。君は怖くないの?」
「ノー、マイク。僕はここで育ったんだ。大丈夫だよ。君は怖いのかい?」と聞くと
彼は、「うん、すこしね」って言ったんだ。
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マイケルは演じたダリルという役柄同様に、同胞から非難されるという現実に直面していたということです。
この頃、すでに彼の尋常性白斑は彼の褐色の色素を変化させていて、世間も薄々その変化(理由はわからずとも)に気がつきだした頃でした。
「黒人のくせに」
白人からは、世界的に成功し名声も富みも白人以上に手に入れだした彼への反感がこの言葉に表れ、
黒人からは、自分達の可能性を示すヒーローから一転、肌が不自然に白くなりつつある彼が、まるで自分達の誇りを捨てて、白人社会に迎合しているという反発をこの言葉に込められ。
意味は違えど、どちらからもこんな言葉を投げられ始めた彼は、どれだけ傷ついたか。
しかし、この島国に住んでいるかぎり、もともと黄色人種がほとんどで、そのことでおおっぴらに差別を受けるような環境ではないわたしなどには考えも及ばないような、肌の色に伴う確固たる意識が歴然と彼の国には存在していたわけです。
マイケルにとってそれを引き合いに出されたり、それを面と向かって言われることが一番辛かったはずです。
なぜなら、彼は人一倍自分の人種に誇りを感じていたからです。
彼が読書家で博識なのは有名ですが、彼の蔵書には黒人の歴史や差別に関連する本もとても多い。
<参考>ジュリアンズオークションから出品されている彼の蔵書の一部

上から「THE AUTOBIOGRAPHY OF MALCOM X(マルコムX自伝)」
「LINCOLN'S DEVOTIONAL(リンカーンの祈り)」
「THE NEGRO CARAVAN」黒人史
「BLACK HEROES of the 20th Century(20世紀の黒人の英雄たち)」
「WITHOUT SANCTUARY」
最後の「ウィズアウトサンクチュアリ」は2000年に出版されたものですが、中身は20世紀初頭にアメリカで行われていた白人による見世物の為の黒人リンチ、その模様を土産用の絵葉書として公然と売買されていたという身も凍るような現実があり、そんな過去の証拠であるリンチ写真を集めた写真集です。
人種の違いの意識がいかに悲惨なものであったか、いかに常軌を逸したものであったか。
恐ろしいのはそのコミュニティではこの黒人へのリンチがごく日常のものであったという、当時の人々の人種における考え方でしょう。
KKKなどの白人至上主義が幅をきかせていた時代・・
マイケルはこの本のページの空白に"Wow, Sad, Wrong, Hateful, and Sick 悲しい・・間違っている・・ひどい・・うんざりだ”など、憤りの言葉達を残しています。
公民権運動の旗手に代表されるマーティン・ルーサー・キング牧師の有名な「I Have a Dream」の演説で知られるワシントン大行進(アメリカ合衆国のワシントンD.C.で行われた人種差別撤廃を求めるデモ)が行われたのは、マイケルが5歳の時。
彼にとって黒人の地位向上の軌跡が、はるか昔に完了している事ではないことは充分知っていました。
だからこそ黒人を自由に導く為に戦ったリーダーを心底尊敬し、自らのルーツをしっかりと心に刻んでいた人でした。
なのに、黒人からも白人からも肌の色が元で非難されるという憂き目にあった彼が、たどり着いた結論。
本当は人種や肌の色が何であってもそれにすりかえているだけで、実は人間の持つ他者への無知、無理解、嫉妬から引き起こされる「憎しみ」という感情が一番怖くて恐ろしいことではないか。
肌が何色であっても、桁外れのスーパースターとなった彼に対する嫉妬やねたみ。
もしくは憧れても届かない絶望からの反動。
それらがいつしか人種というフィルターをかけて、それぞれの人種がそれぞれの理由をつけて彼を非難したとしたら。
ひょっとしたらウェズリーと一緒に通りを歩いた時にも、それを感じたのではないかとも思えてしまうのです。
彼が怖かったのは単純に「ハーレムという場所にいる粗暴な人」ではなかったのでは・・と。
人種や肌の色というフィルターは実は問題ではない。
誇りを持つことと、人種に縛られることとは別なのだと。
白人からも黒人からも、彼の外見とアイデンティティがアンバランスだと非難された彼だからこそ、のちの「Black or White」で「黒か白かなんて関係ない」というはっきりとしたメッセージを打ち出せたのだと思えるのです。
外側のフィルターを通して判断することが、そもそも無知であり、それが偏見につながり恐れを呼び、いずれは憎しみに発展してしまうような愚かなことはもう止めようと。
彼は自分が黒人であることに誇りを持っていたけれど、だからと言ってそれが他の人種を蔑視することにつながることを憎んだのでした。
逆を言えば、黒人であるがゆえに軽くあしらわれたり、いわれのない処遇を受けたときは先頭に立って抗議しました。
いつも根底には表向き人種問題に見える、実は根深い人間の嫉妬心や偏見こそ憎むべきものだと伝えたかったのではないかと思うのです。
一見カッコよく見えるものがカッコいいとは限らない。
男らしい男ってなんだ?
白人だから黒人だから、なんなんだ?
外側だけで判断して、いろいろなものを取り違えたり履き違えたりしてはいけない。
勇気を取り違えるな。
強さを履き違えるな。
優しさは弱さなんかじゃない。
本質を知ろう。それが一番大切なこと。
ウェズリーのエピソードは、BADに込められた彼の思いを、こんなふうに解釈させるものとなりました。
勝手に長々書いてしまったけれど、作品の解釈を見る側に委ねていた彼ですから、許してくれるかなw
実はまだ続くのですが、長くなりすぎたので今日はこの辺で。
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