Michael&Wesley Snipes&JB&Spike Lee その2
ずいぶん前のニュースですが、BADのSFが撮影されたNYの地下鉄スキャマホン駅に、彼を記念した壁画が制作されます。
このTributeにウェズリーも協力をしています。
ウェズリーはBAD撮影時、自分のシーンは3日間の予定だと聞かされていましたが、実際撮影は3週間、ほぼ1ヶ月にも及んだそうです。(たった17分の映像に!)
マイケルも監督のスコッセッシも、単なるミュージックビデオを撮るつもりがないということが如実にわかるエピソードだと思います。
それだけマイケルは作品制作に対し、常に全身全霊で全力投球するということで、奇しくもウェズリー自身、マイケルのボディガード気分にもなりましたが(前記事参照)、この撮影期間中にその現場を目の当たりにし、彼から多くを学んだと語っています。(ソースはこちら)
僕が最も得られたことは、マイケル・ジャクソンがリハーサルでも、すでにパフォーマンスレベルだったのを見たということだ。
僕は言った。「これこそまさに完璧なアーティストだよ。僕がたどり着きたい頂点、そしてアーティストとして手に入れたいスキルだ」ってね。
僕は彼からそれらを学んだからこそ、自分もリハーサルでは手を抜かない。
そして仕事をする上で、そのことにこだわって努力してきたんだよ。
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マイケルはわずか5歳からショービズの世界で生きていた人でしたから、BAD撮影時は28歳でしたけれど、すでにキャリアもアーティストとしてのプロ意識も充分ベテランの域に達していました。
ここからはわたしの勝手な解釈ですが、Thrillerで世界的な成功を収めたことにより、それを上回ることは難しいとされる意地悪な風潮、それに加え自分に対して手のひらを返したような妬みにも思える逆風、そんなものを払拭するのに一番確かな方法は、自らのパフォーマンス、作品、映像、その全てに魂を注ぎ込み、最高を追い求め、BESTなものを世に出すこと。
良いものは必ず受け入れられる。
歌であってもダンスであっても映像であっても
見る人がどんな年齢であってもどんな国の人であってもどんな肌の色であっても
それを彼はそれまでのJacksonsでのコンサートで、肌で感じてきたのではないでしょうか。
コンサート会場は国境もしがらみも上下もなにもない世界。
彼らのコンサートの客席には、老いも若きも黒人も白人もアジアンも、みな同じ曲で同じように歌い踊り喜び叫んでいる。
そんな光景を、彼は本来送るべきだった普通の暮らしと引き換えに、小さな頃から世界中を回ってさまざまな国で見てきたのです。
それはいつしか揺るぎない確信を彼に与えたのではないかと思うのです。
自分の作る曲、踊り、歌、映像、そう自分のアートが本当に良いものであれば、必ず受け入れられ、自分への偏見も吹き飛び、何の隔たりもなくなり、みんながひとつになるはずだと。
そのために努力を惜しまない。
やることに意義を見出したら全力投球する。
絶対に妥協をしない。
すでに28歳にして、それから延々と続く彼のいつでもどこまでも「最高」を求める姿勢は完成されていたのではないでしょうか。
ウェズリーは自分とさほど年が違わないにもかかわらず(4つ違い)すでにアーティストとして確立されたマイケルの意識の高さに衝撃を受け、そして大いに触発されたのではないでしょうか。

その後、ウェズリーは自ら語るように、マイケルから学んだことを忘れずに努力を重ね、俳優として成功を収めていきます。
そんな彼に映画監督スパイク・リーからある映画のオファーがきます。
それは2006年クリスマスに73歳で生涯を閉じたファンクの帝王、King of SOUL、ジェームズ・ブラウンの伝記映画で、JB本人の役をやらないかと。
James Brown
マイケルの永遠のヒーロー。
彼が影響を受け敬愛したアーティストは、それこそ黒人、白人関係なく多く存在します。
素晴らしいパフォーマーには全て心酔し影響され、そうして最後は彼の血となり肉となるが如くその素晴らしい要素を全て吸収してしまうマイケル。
彼の中には、優雅なフレッド・アステア、ダイナミックなジーン・ケリー、粋で品のあるサミー・デイビスJr.らが息づいているのです。
そしてもちろん熱いSoulを感じさせるJBもマイケルの中に。
2003年BET Awordで、Life time achievement award(特別功労賞)をJBに贈るプレゼンターとして、マイケルがサプライズで参加し、会場とJB本人を驚かせ、おおいに喜ばせました。
JBにはお得意のパフォーマンス「マント・ショウ」があり、それは力の限り歌い踊り、ついにステージに倒れてしまうJBが、司会役にマントをかけられることで復活する、というもので、この時はそのマントをかける役をマイケルが行いました。
ステージでJBステップを披露する彼を、とても嬉しそうに見守るJB。
マイケルが幼い頃、NYのアポロシアターで自分の出演が終わってもJBのステージを舞台の袖から見続けて、JBのダンスに、彼の流れるようなファンキーなステップに、はっちゃけるエネルギーに、Soulを感じずにはいられない彼のシャウトに、憧れて憧れて憧れて・・。
その永遠のヒーローに賞を贈るプレゼンターを自分が務めることに、どれだけ感激していたかが、マイケルが感極まってスピーチの最中声をつまらせる場面でよくわかります。
「今日、この賞を(彼に)さしあげる役を断るわけにはいきませんでした。
なぜなら、今ここに立つこの人物ほど僕に影響を与えた人物はいないからです。
僕がまだ6歳だった頃、彼以上に尊敬していたエンタテイナーはいませんでした。
そして、今でも尊敬しています。今日のこの賞を受賞するのに、彼以上にふさわしい人物はいません」
賞を受けるJBの方は、ひたすらニコニコ、ハイテンションで、さすがゲロッパ!w、余裕の貫禄ですが、きっと彼も相当嬉しかったのではないかと、その顔中しわしわにした笑顔で感じます。
ですがこれ以降、ふたりが公に同席する機会はなくなります。
この年にマイケルは、あの忌まわしいでっちあげに巻き込まれてしまいますし、ようやく開放されたときには、マイケルは全てに疲れ果て、アメリカを出て行きました。
JBは、彼の事を理解してそしてとても心配していました。
でも
ふたりの間にお別れのときは近づいていました。

続きます。
このTributeにウェズリーも協力をしています。
ウェズリーはBAD撮影時、自分のシーンは3日間の予定だと聞かされていましたが、実際撮影は3週間、ほぼ1ヶ月にも及んだそうです。(たった17分の映像に!)
マイケルも監督のスコッセッシも、単なるミュージックビデオを撮るつもりがないということが如実にわかるエピソードだと思います。
それだけマイケルは作品制作に対し、常に全身全霊で全力投球するということで、奇しくもウェズリー自身、マイケルのボディガード気分にもなりましたが(前記事参照)、この撮影期間中にその現場を目の当たりにし、彼から多くを学んだと語っています。(ソースはこちら)
僕が最も得られたことは、マイケル・ジャクソンがリハーサルでも、すでにパフォーマンスレベルだったのを見たということだ。
僕は言った。「これこそまさに完璧なアーティストだよ。僕がたどり着きたい頂点、そしてアーティストとして手に入れたいスキルだ」ってね。
僕は彼からそれらを学んだからこそ、自分もリハーサルでは手を抜かない。
そして仕事をする上で、そのことにこだわって努力してきたんだよ。
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マイケルはわずか5歳からショービズの世界で生きていた人でしたから、BAD撮影時は28歳でしたけれど、すでにキャリアもアーティストとしてのプロ意識も充分ベテランの域に達していました。
ここからはわたしの勝手な解釈ですが、Thrillerで世界的な成功を収めたことにより、それを上回ることは難しいとされる意地悪な風潮、それに加え自分に対して手のひらを返したような妬みにも思える逆風、そんなものを払拭するのに一番確かな方法は、自らのパフォーマンス、作品、映像、その全てに魂を注ぎ込み、最高を追い求め、BESTなものを世に出すこと。
良いものは必ず受け入れられる。
歌であってもダンスであっても映像であっても
見る人がどんな年齢であってもどんな国の人であってもどんな肌の色であっても
それを彼はそれまでのJacksonsでのコンサートで、肌で感じてきたのではないでしょうか。
コンサート会場は国境もしがらみも上下もなにもない世界。
彼らのコンサートの客席には、老いも若きも黒人も白人もアジアンも、みな同じ曲で同じように歌い踊り喜び叫んでいる。
そんな光景を、彼は本来送るべきだった普通の暮らしと引き換えに、小さな頃から世界中を回ってさまざまな国で見てきたのです。
それはいつしか揺るぎない確信を彼に与えたのではないかと思うのです。
自分の作る曲、踊り、歌、映像、そう自分のアートが本当に良いものであれば、必ず受け入れられ、自分への偏見も吹き飛び、何の隔たりもなくなり、みんながひとつになるはずだと。
そのために努力を惜しまない。
やることに意義を見出したら全力投球する。
絶対に妥協をしない。
すでに28歳にして、それから延々と続く彼のいつでもどこまでも「最高」を求める姿勢は完成されていたのではないでしょうか。
ウェズリーは自分とさほど年が違わないにもかかわらず(4つ違い)すでにアーティストとして確立されたマイケルの意識の高さに衝撃を受け、そして大いに触発されたのではないでしょうか。

その後、ウェズリーは自ら語るように、マイケルから学んだことを忘れずに努力を重ね、俳優として成功を収めていきます。
そんな彼に映画監督スパイク・リーからある映画のオファーがきます。
それは2006年クリスマスに73歳で生涯を閉じたファンクの帝王、King of SOUL、ジェームズ・ブラウンの伝記映画で、JB本人の役をやらないかと。
James Brown
マイケルの永遠のヒーロー。
彼が影響を受け敬愛したアーティストは、それこそ黒人、白人関係なく多く存在します。
素晴らしいパフォーマーには全て心酔し影響され、そうして最後は彼の血となり肉となるが如くその素晴らしい要素を全て吸収してしまうマイケル。
彼の中には、優雅なフレッド・アステア、ダイナミックなジーン・ケリー、粋で品のあるサミー・デイビスJr.らが息づいているのです。
そしてもちろん熱いSoulを感じさせるJBもマイケルの中に。
2003年BET Awordで、Life time achievement award(特別功労賞)をJBに贈るプレゼンターとして、マイケルがサプライズで参加し、会場とJB本人を驚かせ、おおいに喜ばせました。
JBにはお得意のパフォーマンス「マント・ショウ」があり、それは力の限り歌い踊り、ついにステージに倒れてしまうJBが、司会役にマントをかけられることで復活する、というもので、この時はそのマントをかける役をマイケルが行いました。
ステージでJBステップを披露する彼を、とても嬉しそうに見守るJB。
マイケルが幼い頃、NYのアポロシアターで自分の出演が終わってもJBのステージを舞台の袖から見続けて、JBのダンスに、彼の流れるようなファンキーなステップに、はっちゃけるエネルギーに、Soulを感じずにはいられない彼のシャウトに、憧れて憧れて憧れて・・。
その永遠のヒーローに賞を贈るプレゼンターを自分が務めることに、どれだけ感激していたかが、マイケルが感極まってスピーチの最中声をつまらせる場面でよくわかります。
「今日、この賞を(彼に)さしあげる役を断るわけにはいきませんでした。
なぜなら、今ここに立つこの人物ほど僕に影響を与えた人物はいないからです。
僕がまだ6歳だった頃、彼以上に尊敬していたエンタテイナーはいませんでした。
そして、今でも尊敬しています。今日のこの賞を受賞するのに、彼以上にふさわしい人物はいません」
賞を受けるJBの方は、ひたすらニコニコ、ハイテンションで、さすがゲロッパ!w、余裕の貫禄ですが、きっと彼も相当嬉しかったのではないかと、その顔中しわしわにした笑顔で感じます。
ですがこれ以降、ふたりが公に同席する機会はなくなります。
この年にマイケルは、あの忌まわしいでっちあげに巻き込まれてしまいますし、ようやく開放されたときには、マイケルは全てに疲れ果て、アメリカを出て行きました。
JBは、彼の事を理解してそしてとても心配していました。
でも
ふたりの間にお別れのときは近づいていました。

続きます。
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