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カレンとLANCOMEと

MJの専属メイクのカレン・フェイさん。
2005年の裁判のきっかけとなった、鬼畜ぼんくらジャーナリスト・マーティン・バシールの偏向はなはだしいドキュメンタリーの、膨大なカットシーン(この部分が本当の真実)にも映っていますし、MJの白斑症によるカムフラージュメイクについてのインタビューにも答えている、30年近くずっとMJを支えてきたスタッフです。
沈黙を破ってインタビューに答えています。

以下はわたしの勝手な抜粋です。
しかも和訳は適当なわたしの訳なので、そんなの許せないわ!って人はご自分で確かめてねw。ソースはこちらです

karen.jpg
(MJとカレンの写真は裁判の前にネバーランドの丘の上で撮影されたものだそうです)

MJとの出会いは、スリラーのアルバムジャケット撮影だったそう。。
MJはすぐに彼女と意気投合したので、「E・Tストーリーブック」「Beat it」の撮影も彼女を指名し、その後専属契約を結びます。

「彼はあなたを信頼していた?」
ええ。
彼の専属になって、スリラーのリリース後からわたしはメディアに悩まされ始めたわ。
覚えているのは、タブロイドの記者がスリラーの撮影の事や、マイケルのことなら、何でもいいからなにか情報を75,000ドルで提供してくれと言ってきた事。
もちろん答えは「NO」よ。
そしたら「いったいいくらならいいのか」って。
わたしはそんなものにはそそのかされなかったわ


「マイケルはスピリチュアルだった?」
クリエイティブな人は大方が自然に大いなる宇宙とつながっているわ
マイケルは自身の才能は神からもたらされているといつも言っていた。
神がそうさせるんであって、自分は何もしていないんだってね。

わたしはマイケルが世界中の子供をどれだけ愛していたか知っているわ
でももっと面白いのは、子供たちのほうが磁石のように彼に引き寄せられてしまうってことね。
子供たちは、彼が心底子供の心を持っていたから、彼の無条件な愛を認識してつながっていたのね
子供は濁っていない目で世界を見る事ができるけれど、マイケルも同じ目を持っていたのよ


「マイケルは何を好んで食べていたの」
マイケルはよく食べる方ではなかったわね
彼は食べる時間も惜しかったの
食事中に、遊びに誘ってくる友達の声が聞こえた子供みたいにね
彼はオーガニックで、ヘルシーな食品を選んでいたけど、確実にバケツ容器に入ったKFCは喜んでたわ
あと、殺人的に甘いバナナクリームパイもね


「最も慈善活動を行った有名人としてギネスに登録されたほどの慈善活動について」
マイケルはそういうことをおおっぴらに言ったりせずに黙ってやるの
彼はそういうことをただ望んで実行しただけ
世界中をツアーでまわっていた頃、他のスタッフがレストランやクラブへ出かけている間、マイケルは孤児院や病院を訪問する事が喜びだったの
事前に向こうが何を必要とするのかを調べて、子供達の為の遊び場を手配したり、バスや車を寄付したり、そして、当日は子供たちが喜びそうなおもちゃでわたしたちの車を満杯にして出かけるの


「マイケルお気に入りの化粧品は?」
それはもう、ランコムのDual Finish Powderよ!
ランコムはわたしにケース単位で提供してくれたの
ランコムにコメントさせて、長年のご厚情に本当に感謝いたします
マイケルはそのコンパクトをポケットに入れたまま持ち歩いては、いろんなところにおいてきてしまうの
彼の周りの人もよく分かっているから、コンパクトを見つけたらすぐにわたしの所へ持ってきて、その繰り返しよ


「あなたはマイケルから''Turkle''というあだ名をつけられたそうですが、どうしてこの名に?」
絶対教えないわ


ツアーの公演回数よりも多く慰問をし、ギネスに認定されるほどの寄付(500億以上)を行い、ネバーランドでも何万人の子供たちを無料で楽しませ、ノーベル平和賞にも2回ノミネートされたMJ。

2006年に来日した際も、東京の児童養護施設を訪れています。
MJはそこの子供たちに「スキヤキ知ってる?」と聞きます。
すき焼きだと思った子供たちは「知ってる!大好き!」と盛り上がりますが、MJが「じゃあ一緒に歌おう」と言うと一瞬固まります(笑)
さすが世界の坂本九ちゃん、「スキヤキ」はすき焼きではなく「上を向いて歩こう」の歌だったんですね。
周りの大人が必死でフォローするように♪うーえーをーむーいてーと歌いだして、ようやく子供たちも「あ、この歌スキヤキっていうの?」みたいに納得して、MJと一緒に大合唱。
MJのとてもうれしそうで楽しそうな笑顔が印象的でした。

そんな風に生涯色々な国の病院や施設を訪問し、ツアーや作品、出演番組などの収益をさまざまな団体に寄付する事は、彼にとっては特別な事ではなく、おおっぴらに宣伝する事でもなく、ただ彼が望んでそれを行い、それによって喜ぶ人(特に子供)を見る事が彼にとっての喜びだという事が、カレンのインタビューであらためて証明されました。

ケンタ好きっていうのは、追悼式でのマジック・ジョンソンのスピーチや、裁判本(マイケル・ジャクソン裁判)の中に出てくるパッセンジャー・プロファイルにも書かれていましたけど、今回も「やっぱりー♪」みたいな(笑)

こんな風に本当のMJの人となりがわかれば、ゴミのような噂やイメージに惑わされずに純粋に正当に彼の楽曲が評価されるはず(特にHIStory以降)、もちろん彼個人に対する評価も。
そのためにもこういう内容は今後も書いていくつもりです。

MJの人道支援や慈善活動だけに焦点を絞ったHPがあります。
「The Silenced Truth ...about Michael Jackson」
彼のそんな一面に興味が出てきた、あるいは、英語が読める人はぜひ一度。(わたしみたいなんがここを読破するのは本当に大変w)

MJ と PEPSI (2)

さて、続きです。

MJにひどい火傷を負わせる結果となってしまったことで、MJとPEPSIの関係は終わるかに見えました。
しかし、MJは自身がうち立てた「スリラー」の世界記録を越える作品を作られねばならず、しかもそれまでジャクソンズの一員としてのツアー経験はあっても、ソロツアーは未経験、世界中が待ちわびているMJの新しいアルバムを引っさげてのソロ・ワールドツアーは絶対に成功させなければなりませんでした。
そのためのサポートができる企業として、彼はPEPSIとの契約更新を承諾します。
しかし、今回はジャクソンズとの契約ではなく、MJ個人です。
MJはPEPSI 側に「次は世界中を燃え上がらせよう」と言い、ただのCM契約ではなく、ワールドツアーのスポンサーとしての統括的な契約の提案をしたといわれています。
この言葉は、世界中にMJ&PEPSI旋風を巻き起こそうという意味と、前回MJが燃え上がった事故にひっかけた意味がうかがえ、PEPSI側にすれば当然選択の余地はなかったでしょう。
1986年、MJとPEPSIは正式に契約更新し、来たるべきソロ・ワールドツアーの宣伝・公演の全てをPEPSIが受け持つ事になります。

MJの初めてのソロツアー「BAD World Tour」は1987年9月にスタートします。
当時日本ペプシコーラの副社長であった秋元征紘氏によると、約1ヶ月にも及ぶ14回の日本公演のスタートと同時に、前回お話した「コーラ戦争に勝った!」著者のPEPSI社長、ロジャー・エンリコ氏のまさにこの本を、日本でも発売するプロジェクトが進んでいたそうで、戦略としてやはりツアー開始に合わせるようにMJのPEPSI のCM(前回冒頭のCM)をいっせいに流すようにしたそうです。
しかも、コンサート会場の一つであった横浜スタジアムの巨大な特設ステージバックにあった「コカ・コーラ」のスコアボードのネオンサイン全面を、黒幕で完全に覆わせることもやってのけ、ここでもいわゆるコカコーラとの「コーラ戦争」は繰り広げられていたのです。
このツアーの結果、「コーラ戦争に勝った!」(日本語)は30万部近くを売上げ、日本でのPEPSI知名度もMJ人気と共に急激に上がり、日本ペプシ・コーラの売上は、前年費40%増という記録的売上を達成したそうです。

BAD Tourは世界15ヶ国で123公演、440万人の観客動員を記録し大成功をおさめました。
と、同時にPEPSI も世界的なシェア争いに勝ったといえます。
MJとPEPSI の目的は一致し、この両者の契約はその後7年間絶えることなく継続される事になります。

マイケルは何本もPEPSI とのCMを作成しましたが、わたしが一番好きで、またまた観るたびに目頭がアツくなるCMがこれ。
最初がオリジナル、次がCM、最後はショートバージョンのCMです。
ピアノを弾き語るマイコーの前に現れる小さな頃のマイコー。
二人が「I'll Be There」をデュエットするところが最高!



I'll be there, I'll be there,
Just call my name, I'll be there...
ぼくはいるよ そばにいる
ぼくの名前を呼んで そばにいるんだ すぐそこに


しかし、この美しいCMまでもが、わけわかんない噂のネタになるんですね。
もうここまでくると本当にUSのメディアは、マイコーになら何を言ってもいいと思っていたとしか思えませんね。
過去記事でも書いた93年の「オプラ・ウィンフリーショウ」でのMJインタビューで、オプラが
「最近のPEPSI CMで出てくる小さな男の子のことだけど、実はあなたが白人の子供を起用したいって言ってたというのは本当なの?」と質問します。(はぁぁぁぁ?!?)
MJはキッパリと答えます。

「まったく馬鹿げてる。今まで聞いた中で一番馬鹿げたおぞましい話だ!
クレージーとしかいいようがないね。
どうして、だいたいあのCMで映っている子供の顔は僕自身の小さな頃なんだよ。
どういう訳で僕が白人の子供に僕を演じさせたいとおっしゃるんです?
ぼくは黒人(ブラックアメリカン)だ!
僕は黒人であるということに誇りを持っている 。
自分の人種について誇りを持っているんだよ。
僕は僕自身が何者であるかについて誇りを持っているんだ。
僕は強くプライドと尊厳を持っているんだ!」



話は一瞬PEPSI からそれたかにみえますが、大丈夫。つながっています。

このオプラのインタビューが放送されたのは1993年2月。
バカバカしい噂はありましたが、この時期このPEPSI の美しいCMはばんばん流れていました。

しかし、93年の夏。
さまざまな諸悪の根源ともいえる、あのゆすり目的のでっちあげであるチャンドラー訴訟が起こります。
始めの頃はDANGEROUS Tour中でもあったことで、PEPSI は静観の構えでした。
しかし結局DANGEROUS Tourは11月メキシコで中断・終了を余儀なくされます。

そして・・。

PEPSI はMJとの翌年の契約更新をすることはありませんでした。
企業としてはやむを得ない選択だったのでしょうが・・。


そして2009年。
あれから15年の月日がたっていました。
PEPSIは、自社のHPにあるメッセージを載せました。
そこにはこう書かれていました。

s-pepsi.jpg

きみはいつだってぼくらのキングオブポップだよ
ありがとう マイケル


何年月日が経とうとも、PEPSI は忘れなかった。
MJが自分たちのコーラ戦争大勝利の大きな立役者だったという事を。
これはPEPSI のMJへの感謝のメッセージだとわたしは思っています。

ただ、もしも出来ることなら彼が生きている間に・・。
再度両者が手を携える事ができていたなら・・と、いまさらですがふとそんなことを思います。


・・・


てことで、これからもわたしはコーラはPEPSI!
美味しいとこがイイ!
ね。

MJ と PEPSI (1)

わたしは断然コーラはPEPSI 派。
そりゃマイケルがペプシのCM出てたからですが何か?

PEPSI といえば1984年のMJの火傷事故。
この時は、マイケル個人ではなく、ジャクソンズとの契約でした。
ライブバージョンのCM撮りの最中、演出効果の爆発の火花が彼の頭に引火し、3度の大火傷を負ってしまいます。

(この時の映像も出回っていますが、とても見れませんので(いや、実際は見たけど最悪)ここにも載せません。)

最初PEPSI 側は、MJの使用していたヘアオイルが異常に火に引火しやすい物だったと発表をし、あたかもMJが勝手に照明に近づきすぎたせいで事故が起きたと言わんばかりだったので、さすがのMJも激怒します。

「だったらありのままの映像を公開してよ
そうしたらどうしてこんな事になったか誰もがわかる」

PEPSI の当時の社長が自身の著書「コーラ戦争に勝った!」(今は絶版)で、その時のことを「私はただ、「どうか神様、私たちの名前を出さないでください。どうかペプシの名を出さないでください」と祈るしかない」と書いています。

当時、コカ・コーラとの熾烈なシェア争いをしていたPEPSI 。
ジャクソンズをCMに起用し「さぁ、これから」と敵に大きく溝を開けようとしていた矢先、こんな映像を流せば当然責任を問われ、イメージは失墜し、MJファンの不買運動を引き起こしかねないわけです。
MJの怒りを静めるべく、PEPSHI は和解を申し入れます。
MJも訴訟を起こそうと思えば充分起こせましたが、彼は基本的に争い事が苦手でした。
彼は後に「僕の対応はとても紳士的だったと思う」と語っています。

結局MJは、厄介な訴訟でだらだらと事が長引くのを良しとせず、事故映像の公開をあきらめ和解に応じます。
PEPSHI 側は、150万ドルの慰謝料をMJに支払いました。
MJはこのお金をそっくりそのまま、彼の治療を行った病院(ブロットマン医療センター)内に、新しく火傷専門病棟を設立するために使いました。
それが「Michael Jackson Burn Center(マイケル・ジャクソン火傷センター)」です。

しかし、過去記事にも書きましたが、この時の大火傷は後々までも尾を引き、何度かの頭皮再生手術を受けなくてはならなくなり、激痛を抑える鎮痛剤を処方されることになります。
忌まわしい93年のゆすり訴訟によるストレスから、この鎮痛剤による中毒となってしまう、まさにきっかけとも言うべき事故でした。

ところが皮肉な事に、この事故が逆に宣伝効果となり、CMのキャッチコピーでもあったPEPSI の
「THE CHOICE OF A NEW GENERATION(新世代の選択)」
戦略は、見事大当たりをし、若者層からの絶大なる支持を、MJのみならずPEPSI も受ける事になります。
このおかげでPEPSI は、ついに宿敵コカ・コーラのシェアを逆転することができたわけです。
(ほんと、マイケル様様だっつの。150万ドルぐらい安いっつの)

PEPSI は「あんな事になってしまって、マイケルはもう二度と契約なんか受けないだろうな・・」と思ってました。
普通そう思いますよね。
ところが・・

続きます。

本当に書きたかったことを (9)

考えてみたら、これはわたしの贖罪のようなものだったのかもしれません。
あんなに好きだったのに、いつのまにか離れてた自分を悔やんで。
自分と彼とをもう一度近づけるべく、自分の為に調べて、自分の為に記録して。


調べるうちに勝手に逆ギレも(笑)

そーだよ、マイケルは凡人からすりゃ変わってるんだよ
だって普通であるはずないじゃん
あんなに才能があって華があって純粋な魂を持ってる人が普通なわけないんだって
5歳からステージに立って、ろくすっぽ普通の子ども扱いされないで育って
超若いうちに大成功しちゃって、お金だって困らないぐらいあったら好きなもん作ったり買ったりするわさ
ギネスに載るぐらい寄付するのだって、普通の人にはできっこないし
それだけの崇高な信念も持ち続けられるわけないんだ
病気のせいでメイクし始めた人をごちゃごちゃ言うなんて最低なんだよ
病気の皮膚を守るためなら日傘もさすっつの
普通に買い物させてくれないんだから変装もするっつの
怪我がきっかけであっても、できるんだったら鼻、ちょっとちっこくしたいなって思ってもいいじゃん
あごだって割れてる方が男らしいって思ったんだよ(それはどうかなマイコー)
世の中にはこっそりいろいろやってる人ごまんといるじゃん
金目当ての最低の濡れ衣着せられた裁判なんかにかけられて、地獄のような毎日を過ごさなきゃならなくて、それでも必死で戦って無罪になってんのに、そんな無罪への過程はきちんと報道しないくせに、いつまでも「疑惑」とか言ってんじゃないよ!!

みたいなことを思いつつ、途中から少し悩んだりも。

わたしみたいなUターン組が、えらそうに書いていいんだろか
純粋に歌やダンスが好きだった人に、逆にゴシップを提供している事になんじゃないか
あんた何様って感じかも・・などなど・・。
でも結局ここまできたのですから、最後まで。


こんな風に書きたくなったのは、「本当に書きたかったことを (1)」で書いたとおり、アメリカのある下院議員のMJを引きあいにだしてのメディア批判記事でした。
そこで堂々とMJのことを「小児愛者の犯罪者だ」といまだ言わしめている現実に愕然とし、わかっていないことをはっきりと知る為に調べ始めたのがきっかけでした。

実は同じ時期に、もうひとつ新聞記事を読んでいました。
7月23日付け毎日新聞の「記者の目」というコラム記事です。
わたしがマイケル追悼中なのを知っている友達が、「akimちゃんみたいなこと言ってはるよ」と切り抜いて持って来てくれたものでした。

s-img001.jpg
記事全文はもう「毎日.JP」にはありませんので、毎日新聞の読者広場から読むことができます。

この記者さんは、MJのファンでもあるようですが、ただ情に流されず本来メディアの基本となる取材を行ったうえで記事を書かれています。
記事内では、ご自分と同じ社の記者の記事を批判し、取材対象であるMJときちんと向き合っていない感のある報道のあり方に疑問を呈しています。
これは大変勇気のいることだったろうと思います。
この記事内容は、憶測や周辺の噂程度をソースにし、取材対象に対して裏づけも取らないような情報が多かったことが、メディア内でも自覚し始めたことを物語るようで、うれしかったのです。
広く発言力のある人や媒体が、悪くても良くてもいいからきちんとした情報をだすことが、本当の意味で彼への誤解をとくことに大きくつながる。

奇しくも、同じ時期に、二つの相反するMJ記事が、なんだかわたしを駆り立てたような気がします。


もともとのファンならとっくの昔に知りえている事実・・
でもまだわかっていない人に向けて書きました。


わたしは、MJを聖人君子のように思っているわけではありません。
彼は本当に思慮深く、底なしに優しく、時として無垢すぎる魂を持ち、その慈悲の心は海よりも深く、とにかくとても魅力にあふれる紳士ですけれど、神さまではない。
(彼は神を真似たいと言っていますが)
繊細な半面、実は自分の思い通りに我を貫く、強いけれど時にそれは頑固とも。
人を喜ばすことが大好きでユーモアに満ち、その反面どこまでいっても自分に厳しく、時には自分を責めて孤独にさいなまれる・・
そんなさまざまな側面を持つ一人の人間なんですね。

でもひとたびステージに立てば!
あとは言わずもがなですね。

しかし、これもまたひとぞれぞれ。
悪いところなどひとつもない、何をやっても許せるわという人もいれば、何をどう説明しても嫌いな人は一生嫌いなんでしょう。
曲がった認識ではなく、事実を知った上での判断なら、それは人それぞれでしょうから。



中国の風習らしいですが、天国にいる自分の関わりのある先祖や故人に、こちらから贈りたい物(紙に書いたり、写真だったり)を燃やして届けるという行事を、友人たちとお盆に行いました。
先祖はもちろん、実家で飼っていた犬にも好きだったジャーキーの名前書いて(笑)
わたしは上記の毎日新聞の「きちんとしたMJ記事」を縮小して、「To Michael Joseph Jackson」と書いた紙に貼って燃やそうとしました。

マイケル。あなたのことを、きちんと書いた新聞記事です。悪い記事ばかりじゃないからね。

紙は勢い良く一瞬にして燃え尽きました。
燃え残りがないぐらい勢いよく燃えれば燃えるほど、贈られたものを相手は喜ぶと聞いていました。


読めたかな・・日本語・・w



s-Michael+Jackson.jpg



「本当に書きたかったことを」は今回で終わりです。
まだ色々と難しい問題があるにはありますが、わたしが書けるのは今はここまでです。


最後に参考にさせていただいたサイトに感謝するとともに、MJの死の1ヶ月前に出版された(なんとも皮肉なタイミングでしたが)「マイケルジャクソン裁判」と言う本に出会えた事にも感謝します。
この本のおかげで、しっかりとした事実を書くことができました。
興味のある人は分厚い本ですが、ぜひご一読ください。

参考にさせていただいたサイト及び書籍
マイケルジャクソンWikipedia
The One&Only
MICHAEL JACKSON's MOONWALKER
Legend Of MOONWALK
あなたの知らないマイケル・ジャクソン
マイケル・ジャクソン裁判~あなたは彼を裁けますか アフロダイテ・ジョーンズ著
シンコーミュージジック・ムック「Michael Jackson Who's BAD?」
「Michael Jackson ポップ・レジェンドに捧ぐ」

本当に書きたかったことを (8)

裁判は2005年1月から始まりました。

カリフォルニア州、サンタバーバラの裁判所には、連日2000以上もの報道陣が詰めかけました。
相変わらずMJに不利な証言のみを大々的に報じるメディアがほとんどだったと聞きます。
それに対して、彼の潔白を信じる多くのファンも世界各地から集まり、MJのInnocentを叫びました。
(裁判の間中、出廷するMJに直接エールを送り続けた多くのファンには、本当に頭が下がる思いです)

MJが常に言い続けてきたこと。

人種や肌の色にこだわるなんてばかげている。
みんなSisterであり、Brotherであり、世界はひとつなのだから。


この言葉を裏付けるように、MJの歌かもしれない、パフォーマンスかもしれない、あるいは彼の信条に魅せられたのかもしれない多くの国も人種も肌の色も違う人々が、ファンと言う名のもとに、ただマイケル・ジャクソンを支えるためにだけ、そこに共存していたのです。
MJの曲を受け入れる、それは彼のメッセージを肯定する事であり、まさにその通りの状況が、皮肉にも裁判所の前で起こったわけですが、そんな大勢のファンの姿を見て、彼はどれだけ嬉しく心強く思ったことでしょう。


そして、6月13日、MJにかけられた14の容疑全てに無罪評決が下されました。

裁判では、児童性的虐待についての少年の証言は二転三転し、あきらかに信用性に欠けるものだったことに加え、肝心の証拠は最後まで何一つ見つからず、その代わりに、この少年の母親は過去に、ある会社を性的虐待偽証で訴え、子供にも偽証させて慰謝料を手に入れていたこと、少年の治療費を実際は保険でまかなえることを隠し、不当に寄付や基金を受け取っていたこと、などが明るみになりました。
少年家族に対する監禁虐待についても、家族はネバーランドを離れてもすぐに自分たちの意思で舞い戻っては、エステや歯の治療、そのほかさまざまな贅沢を、全てMJの全額負担により受けていた事も明らかになりました。
(これで監禁されているなどと、よく言えたものです)
今回も、結局はMJから多額の賠償金を騙しとることが目的であったことが日の目を見るより明らかになったわけです。
その後、母親はさまざまな手段で手に入れた資産を隠したまま、生活保護を不当に受けたとして福祉詐欺の罪で有罪になりました。
この家族は、哀れで気の毒な仮面をかぶった詐欺集団のようなものでした。

この裁判は、はなから確たる証拠もなしに、一人のアーティストを、その名誉もずたずたにして法廷に引きずり出しただけではなく、多額の税金を使っただけの、いうなればネガティブキャンペーンのようなものでした。
無罪を勝ち取ったというよりも、「もともと何もなかった」という事実を、あらためて立証しただけだったように思います。
そしてMJは、その裁判の間中、ずっと続いたメディアの攻撃と、毎日自分を裏切る人の証言を聞かねばならなかったことも大きな要因となったのでしょう、もはやその身体と心は健康と言うには程遠い状態になっていました。

日本でも大きく報じられた公判中の出来事。
「出廷に遅刻をしたMJはパジャマ姿だった」というもの。
情報番組のコメンテーターが「信じられませんね。どういう神経をしているのでしょうか」とコメントしていたのをよく覚えています。

実はこの前日、原告であるギャビン少年が初めてMJの前で検察の証人尋問を受けました。
少年は「MJからは何の助けも受けていないし、彼に憧れてもいない。
バシールの番組内で彼を賞賛したのは全てうそだった」と証言しました。、
このときMJはどんな思いで彼の言葉を聞いていたのでしょうか。

出会った頃は、ガン治療のための化学療法の影響で、髪は抜け落ち痩せほそり、車椅子でしか動けなかった少年・・。
「ガン細胞をキミの元気な細胞がぱくぱく食べてしまうところをイメージするんだ。そう、まるでパックマンのようにね」とイメージ療法を伝えるMJ(イメージさせるのは盛田さんのテープにもありました)に、「人前で帽子を脱ぐ勇気をくれてありがとう」と喜んだ少年・・。
その彼が、今自分の目の前で、自分を陥れるためのウソの証言をすらすらと話している・・。

MJは母親にこう言ったそうです。
「お母さん、次の証人ですと言われて出てくる人々を見回して僕は驚く。
なぜなら彼らは僕が助けてきた人たちだからだ。
その人たちが僕からお金を盗るためにそこに来て、さらに嘘をつくことで僕からお金を奪おうとしている。
僕にはどうして人間がこんなことをすることができるのか分からない・・」

翌日彼は背中の激痛を訴え体調を崩し、病院にいました。
MJの代理人であるトーマス・メゼロウ弁護士は、公判開始時刻の相談を判事に行いますが、判事は断固として時間内の出廷を求め、それができなければ保釈金の没収を命じます。
万が一間に合わなければ投獄の可能性もありうるということで、メディアは色めき立ち、MJを乗せた車は病院から時速約145kmのスピードで走らなければなりませんでした。
何とか時間内に出廷してきたMJでしたが、スーツに着替える事もできず、病院からそのままの格好、つまりTシャツとパジャマズボンで、(何とかジャケットだけは羽織っていましたが)裁判所に入らざるを得なかったのでした。

jackson_pyjamas.jpg

その足取りは弱く、両側から支えられて何とか歩いてる状態でした。

しかし、そんな背後にある事情は報道されず、日本のコメンテーターは「単なる寝坊」もしくは「仮病」などとコメントしていたのでした。
遅刻は間違いないですからそれはいいとしても、こんな風に憶測でものを言う情報だけが流されることで、ますますMJの奇人変人イメージは強くなっていったのだ思います。

2001年、US版「TV GUIDE」でのインタビューで、MJはマスコミの自分を変人扱いをする報道に対して語っています。
(マスコミの偏向報道を)
「前向きにとらえて、それをエネルギーにしてしまうんだよ。
その事についての曲を書いたり、踊ったり、動きや顔の表情に表したりするんだ。
それらがやがて僕の一部となり、作品の一部となる。
自分の中に、あまり取り込まないようにしているんだ。
もしそんな事したら、気が狂ってしまうよ」

また別のインタビューでは「僕はサイの皮膚のように頑丈なんだ。強いんだよ」とも。

しかし、全てが終わったとはいえ、今回ばかりはすぐに何もなかったかのように出来るわけもなく、MJは静かな場所で静養するためにアメリカを出て行きました。


裁判終了後の6月22日。
MJの母親であるキャサリンがインタビューに答えました。

これを読んだ時、MJは本当に強い信念の人だと確信しました。
彼はさまざまなバッシングにさらされ、手痛い裏切りにあい、ついには健康をも損ないました。
しかし、彼は決して「可愛そうな弱々しいピーターパン」ではなかったのです。

キャサリンママは、公判中、そして公判後に彼と交わした会話を、こう語っています。

「私がマイケルに、「どうかお願いだから、他人をランチ(ネバーランドの事)に呼ぶのはもう止めて。
他の家族と仲良くなることなど止めて。」と懇願すると、彼はこう言ったわ。
「お母さん、この人たちを助けなければならない時は、これからは僕は遠くから離れてするから。」と。
それでも、私は納得できず、心の中で "とんでもないわ。他人があなたの人生にこれだけひどいことをする可能性があるなら、人なんか助けなくていいわ。"と思っていた。

でも彼は決して人を助けるのを止めるとは言わなかったのよ



Man In The Mirror


通りに食べるものすら満足にない子供たちを見た
僕は一体なんてヤツなんだ
彼らの事を見て見ぬ振りをするなんて

僕は鏡の中の自分に問う事から始めるよ
自分の生き方を変えてみるようにさ
これ以上はっきりとしたメッセージはないんだ
もしもこの世界をより良く変えたいと思うなら
自分自身を見つめて自分が変わるんだ

Make that change



■参考にさせていただいたサイト及び書籍
The One&Only
MICHAEL JACKSON's MOONWALKER
マイケル・ジャクソン裁判~あなたは彼を裁けますか アフロダイテ・ジョーンズ著

本当に書きたかったことを (7)

ちょっと迷いましたが

やっぱ書こう。



<2005年 マイケル・ジャクソン裁判>

ダイアナ元皇太子妃とのインタビューを成功させたジャーナリスト(とは思えませんが)マーティン・バシールのMJへのインタビューで構成されるドキュメンタリー番組が、2003年2月にイギリスで放映されました。
その番組内で、MJが気遣っていたガン患者のギャビン・アルビーゾ少年が、世間の注目を集めます。
その最大の理由は、ギャビン少年はMJの好意によりネバーランドでの滞在を許されているうち、奇跡的にガンが完治した、ということではなく、元気になった少年とMJが同じ寝室で眠ることがあったという事実でした。
日本では、他人同士の大人と子供が同じ布団で雑魚寝したからといって、すぐに性的な事柄を想像する人は少ないと思いますが、お国柄の違いでUSではそのことがどうにも理解できなかったのでしょう。

しかも人々は93年の事件を忘れていませんでした。
その上、きっかけとなったバシールの番組内で流された情報は、MJの金銭感覚、わが子に対する接し方が異常だとし、それらはMJ自身の幼少時の父親による虐待の影響だとコメントし、そんな危険因子を持つMJの住処であるネバーランドを、多くの子供たちが訪れるのは非常に危険だとほのめかすものでしたので、ますます少年とMJの関係はうしろ暗いものであるという風潮に発展します。
そんな憶測が飛び交う中、MJが助けたその本人と家族が、最初はそんな疑惑の発端となったバシールの番組に対して損害をこうむったという訴えをおこすとしていたのですが、どうしたわけだか急に態度を一変させ、恩人であるMJを性的虐待で訴えます。
面白い偶然の一致(皮肉です)とはこのことで、ギャビン少年の代理人は93年に多額の示談金をまんまと手に入れることに成功したチャンドラー少年側の代理人でした。
(告訴内容は、子供への性的虐待と、少年を含む家族の存在が、MJのキャリアを汚したということでのMJサイドによる家族への監禁虐待というものでした)
93年にMJを起訴できなかった検察は、その時のお返しとばかりに莫大な経費を使い、やっきになって証拠探しを始めます。

1993年の事件を「和解」という形で解決させた事が、10年の時が経た今尚、MJを利用して、新聞の部数や視聴率を上げることができると考えるメディアや、威信を取り戻そうとする検察、楽に大金を得ようとする強欲な人間たちに、「なんらかのチャンス」をもたらしてしまったといえます。

またもや手を差し伸べた家族から裏切られ、大規模なネバーランドの捜索で彼の夢だった場所は荒らされ、警察から手荒な扱いを受け、すでにメディアからクロ扱いの偏向報道をされ始めたMJは、2003年12月25日、US報道番組「60minutes」のインタビューを受け入れ、自身の潔白を必死に訴えました。

この動画は全編ではなく、要約ですが、重要な部分が映されています。
※この中では出てきませんが、問題の少年について聞かれたMJは「親の命令は絶対だ。あの子はそんな子じゃない。訴えたのは本当の彼ではないんだ」と、ここまできても尚少年をかばっています。(どんだけ)



●メディアに対して
MJ:「世間は否定的な記事を書く。何故ならその方が売れると思っているから。良いニュースは売れないからだよ。」

●彼に対する警察のひどい扱い
MJ:「それから…僕はトイレに行きたいと言った。彼らは「いいよ。あそこの角を曲がった所にある」
そしていざ僕がトイレに入ると、連中はカギをかけて僕を45分近くも閉じ込めたんだ。
そこは壁にも床にも天井にも、あちこちに糞尿が投げ付けてあった。ひどいニオイだった。
すると1人の警官がやって来て、窓越しで嫌味たっぷりにこう言った。
「よくニオイを嗅いでおけ…このニオイは好きか?気に入ったか?いいニオイだろ?」
僕は答えた。「あぁ、いいよ」。僕はそこに腰掛けて待った」
インタビュアー: 「45分間も?」
MJ: 「あぁ、45分間もね。45分近くだ。するとまた別の警官がやって来て
「もうすぐ出してやる、もうすぐな」などと言う。なのにまた10分、15分と追加されていった。
あいつら、わざとそうしていたんだ。」

●同じベッドを誰かと共有する事について
インタビュアー:「あなたの言葉を引用させてもらうと「どうしてベッドを共有してはいけない?もっとも愛すべき行動は自分のベッドを誰かと共有する事だ」
MJ: 「その通り」
インタビュアー: 「今でも、子供たちとベッドを共有するのは許される事だと思っている?」
MJ: 「もちろん。もちろんだよ。何故いけない?
これが小児性愛者だったり、切り裂きジャックだったり、殺人犯だったりしたらとんでもない話だ。
でも僕は違う。僕らはそうやって育てられた。それに僕は子供と同じベッドで寝てはいない。
もし寝ていたとしても、それはオーケーだろう。僕は床の上で寝ていたんだから。
子供にベッドを譲ってね」

神の言葉を引用しながら
MJ:「僕は子供たちの表情に神の面影を見る。僕が彼らを好きなのも、そこなんだ。」

●再度ベッドの共有に関して
MJ:「自分のベッドを共有する事の、何がいけないというの?
ベッドに潜り込んで寝たなどとは一言も言っていない。
たとえ僕がベッドで寝ていたとしても、それはオーケーだろう。
僕は子供に対して性的な行いをする気などまったくない。そんなの、僕の心が許さない。
僕はそのような行為は断じてしないよ。そんなの、マイケル・ジャクソンの真の姿じゃない。
悪いけど、それは本当の僕じゃないよ」

●今回の件が与えるキャリアへの影響と、それによるCDセールス不振と伝えるメディアについて
MJ:「僕のアルバムは世界各地で1位になっているよ。世界のあちこちで、だ。
アメリカだけは特別だよ。だって…いや、あまり言いたくはない」
インタビュアー: 「でもアメリカでは1位になっていないでしょう?」
MJ: 「それは陰謀だよ。…とにかく言いたくないんだ。あぁ。だんだん疲れてきた」

●ファンへのメッセージ
インタビュアー:「 マイケル、今回の件を通してあなたを支えてきたファンへのコメントは?
あなたに聞きたい事もあるかも知れない。彼らには何と答える?」
MJ: 「彼らには、本当に愛していると言いたい。
彼らは遠く離れた場所から僕について知り、僕について理解をしてくれた。
でも僕について本当に知りたかったら、僕が書いたひとつの曲がある。
今まで書いた中でも、もっとも僕の心情を正直に表した曲。
「Childhood」という曲だ。
彼らには是非聴いてほしい。これこそ彼らに聴いてもらいたい曲なんだ。
世界中のファンのみんな、応援に感謝するよ。みんなを心から愛している。
愛されて当然、などとは思っちゃいない。これっぽっちもね。
世界中のみんなの事が本当に大好きだ」

「Childhood」


Have you seen my childhood?
僕の子供時代を知っているかい?

自分の通ってきた世界を振り返っているんだ
ずっと探していたんだ
心の中の忘れ物が置いてある場所を・・

誰もわかってくれない
僕のことを奇妙でエキセントリックだと片付けてしまう・・
いつも僕が子供のようにふざけすぎていたからだろう でも・・

世間は僕が変わっていると言う
それはすごく些細な事を子供のように喜ぶから・・
それを背負って生きていかなければならない
子供時代を知らなかったために・・

僕の子供時代を知っているかい?
幼かった頃の奇跡を探しているんだ
海賊だとか冒険がつまった夢
冠をつけた王様や征服の話・・

僕を判断する前に受け入れようと努力して
心の奥底にある感情を確認して
それから子供時代の事を聞くべきだ

世間は僕が変わっていると言う
それはすごく些細な事を子供のように喜ぶから・・
それを背負って生きていかなければならない
子供時代を知らなかったために・・

僕の子供時代を知っているかい?
幼かった頃の奇跡を探しているんだ
皆で分かち合えるような素晴らしい物語を
冒険心に満ちて、空を飛べるような夢を・・

僕を判断する前に
愛してみようと努力して
自分の過ごした辛い子供時代を・・



しかし、2004年に3度目の大陪審で、ついにMJは起訴されました。


■参考にさせていただいたサイト及び書籍
Wikipedia「マイケル・ジャクソン裁判」
The One&Only
MICHAEL JACKSON's MOONWALKER
あなたの知らないマイケル・ジャクソン
マイケル・ジャクソン裁判~あなたは彼を裁けますか アフロダイテ・ジョーンズ著

本当に書きたかったことを (6)

ここんところ、書きたかったことを書いているにもかかわらず、ものすんごく気が滅入ります。
そりゃそーだ・・
MJの名誉を汚した事件について書いているのですからね。

でも、何だかもうとりつかれてるみたいに、書かないではおれない感じで。
今書いている事柄はその後のMJの、最も最悪な事件につながっている事ですから、ここは絶対はずせないところ。
そして、本来の目的である、事実を知ってもらうこと。
これしかもうないんでね。


<この訴訟の結末>

心身ともにぼろぼろになりながら、MJは93年12月にアメリカに帰国します。
その直後に彼は警察に連れて行かれます。
告発の内容が内容だけに、告発人の供述と彼の身体的特徴が一致するかを調べるための身体検査を受けるという憂き目にあいます。
見に覚えのない疑いをかけられ、散々傷ついた彼に追い討ちをかけるような悪夢。
この強制検査にたいしてマイケルの拒否権は認められず、もしも拒否をすれば、裁判時に有罪の証拠にすると脅された彼は、その屈辱的な検査を受け入れるしかありませんでした。

その12日後の12月22日、マイケルはネバーランドから、やはり生中継で自身の声明を出しました。



悲痛な表情で彼は
Don't treat me as a criminal, because I am innocent.
「僕を罪人のように扱わないで下さい。僕は無実なのですから
と訴えています。
強制的に受けねばならなかった検査(写真撮影)が、どれだけ屈辱的なものだったか。
「あれは最もひどい悪夢でした」と語っています。
また彼にとって子供たちと関わることは
It is of enjoying, through them, the childhood that I missed myself.
「僕自身には無かった子供時代を、子供たちを通して楽しんでいるのです」
とも語っています。

マイケルにとって、子供でありながら子供らしいことができなかった自分の子供時代を、普通の子供たちを通して一緒に楽しみたい、そんな彼らを力を尽くして守りたいという気持ちは、ずっとずっと消えることはありませんでした。
ネバーランドを作った理由も同じでした。
失われた子供時代を取り戻すため。そして同時に世界中の子供たちと分かち合うため。
彼はいつも一貫しています。
その時々で発言がブレる事など一切ありません。

こんな風に記事を書くまでに、わたしも色々と(まだ足りないかもしれませんが)自分なりに調べました。
そこで、MJの過去の発言、インタビュー記事、インタビュー動画など、英語オンリーなものは途切れ途切れしかわかりませんから厳しいですが、日本語になっているものを読み進めてはっきりとわかったのは、いつの時代でも彼は同じ事しか語っていないのです。
人間その場その場で適当な事はいくらでも言えて、あるいは台本があるなら時が過ぎれば何を言ったかすら忘れます。
しかし、これだけ主張がかわらないなら、それは間違いなく彼の本心、彼の信念、深い決意なのです。

それを、変っているだのWacko Jacko(変人ジャクソン)だのと面白おかしく書きたてたマスコミは、今また、まだ裁判にならないうちから有罪の如く書きたて、犯罪者扱いをし、彼を窮地に追い込もうとしていたわけです。

MJはこの悪夢を早く終わらせようとしました。
裁判ともなれば、長い争いの果て、自分も含め少年も証言をしなくてはならず、そんな場面は彼には耐えられなかったのではないでしょうか。
94年1月に2,000万ドルの和解金を支払う事に同意します。
(誤解されていますが、この金額はMJではなく保険会社が支払いました。訴訟の多いUSではこれは珍しい事ではありません)
告訴側に目論見どおり大金が転がり込んだわけです。

しかし、和解に応じた=罪を認めた ではないことをここではっきりと書きたいと思います。

マイケルに非があるのなら、一番最初の段階、つまり少年の実父がお金を要求してきた時に、どうせ保険会社が支払うならとっとと支払って口止めしておけばいい話です。
しかし、彼は要求を即座に断り、そのおかげで名声に深いキズをつけ、プライドも粉々になり、精神的肉体的苦痛を受けました。
なぜそんなリスクを負わねばならなかったのでしょう。

彼はInnocentだったからです。
無実であり、潔白であり、そしてここまで恐ろしい状況になることを予測できないほど、あまりに無垢だったのです。

この民事訴訟は和解成立により終了し、刑事裁判の調査へと移りましたが、あのマイケルに生涯を通じて最大の屈辱と言わしめた身体検査の写真は、少年の供述と全く一致しませんでした。
しかも示談金を受け取った少年側は、刑事裁判での証言を拒否するという、通常ではありえない展開となりました。
これを見ても、本当に少年に被害があったのではなく、実父により引き起こされたこの訴えが、お金のみ目的にしていたことがよくわかるというものです。
そして検察は、この問題に関してのその他の証拠を何一つ見つけられぬまま、刑事裁判として起訴に至ることはありませんでした。

この事件のさらに詳しい解説をこちらでお読みいただけます。
興味のある方は、ぜひ全文お読みいただくと、このでっちあげ恐喝事件(と、わたしは思っています)の全貌がお分かりいただけると思います。

こうして悪夢のような日々は終わりを告げた・・
かと思われましたが・・。


さらに続きます。

■参考にさせていただいた記事及び書籍
Wikipedia 1993年性的虐待疑惑
The One&Only
Legend Of MOONWALK
●マイケル・ジャクソン裁判~あなたは彼を裁けますか アフロダイテ・ジョーンズ著

本当に書きたかったことを (5)

ステイプルセンターでの「THIS IS IT」リハーサルの新たな写真が公開されました。

mj_riha.jpg
バックダンサーのフリ、「The Way You Make Me Feel」っぽいけど違うかな?
わかんないけど、ま、いっか。
マイコー足長ーい♪
後ろの若いゴリマッチョダンサーなんかよりずっとステキ♪あー、うっとり。

映画、楽しみではありますが、どうせばば泣きして、しっかり見れないような予感がしてて
何となく嬉しいけれど憂鬱な気もするという複雑な気分です。

さて本題です。


むかしむかし。
マイケル・ジャクソンととても仲がよかった少年がいました。
ふたりはともだちでした。
でも少年のパパとママは、マイケルにともだちではなく、色んなことのめんどうをみてくれる足長おじさんになってほしかったのです。
マイケルはパパから「お家をかって」といわれましたが、ことわりました。
おこったパパは、マイケルにしかえししてやろうと思いつきました。
すでにママとパパはおわかれしていましたが、少年にとってパパはパパでした。
だから少年はパパの命令に、はむかえませんでした。
その命令とはウソをつくことでした。
パパは歯のおいしゃさんだったので、ますいを少年にかけながら「ウソ」を本当のようにおしえました。
少年は、パパの言うなりになりました。
そして、大すきだったマイケルに、ついてはならないウソをつくのです。
「ぼくはマイケル・ジャクソンにいたずらされた」


<1993年の悲劇>

今から16年前の事です。
わたしはこの年の6月、アメリカのサンディエゴを訪れていて、地元のモールでうろうろしていた時、MJの「Billie Jean」が流れてきて「おおー、さすが本場」と妙に盛り上がった事を今思い出しました。

MJの1993年は華々しく幕を開けました。
クリントン大統領の祝賀会に招かれ、パフォーマンスを披露し、1月31日には、カリフォルニアでのNFL第27回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演します。
試合よりもハーフタイムの視聴率が上回るほどで、このときの彼のパフォーマンスを見てアルバムを買いに走った人が多かったのでしょうか、「Dangerous」は売上が一気に伸びたといわれています。
その後2月に前回の記事で触れた「オプラ・ウィンフリーショー」で、妙な編集ができないようネバーランドからの生中継と言う形で、自ら「尋常性白斑症」を告白し、噂やゴシップを払拭するためインタビューに答えます。
そこでオプラの「あなたは今幸せなの?」という問いに「いろいろあったけど今は幸せです」とはっきり答えました。

しかし、その幸せは突如乱されることになります。

13歳のジョーディ・チャンドラーと言う少年が実父によって、MJを「児童性的虐待」で告訴します。
最初この父親は、離婚した元妻・息子と自分が疎遠になった理由がMJだとし、その賠償として2,000万ドルを要求しますが、MJ側がこれを拒否すると即座に行動に移りました。
8月、ネバーランドで大掛かりな家宅捜索が行われますが、その時点でMJはツアーの為に海外にいました。
自分がいないときに、自分の大切な場所が、多くの他人にかき回され荒らされた事を知ったマイケルは、怒りの感情を爆発させたといいます。
この問題は、今までのような単なるゴシップなどではなく、彼の人生やキャリアに恐ろしく傷を残すことになりかねませんでした。
しかも告訴した相手が、マイケルが日頃から大切に思っていた子供(友達)。
彼の精神的なダメージは、肉体的ダメージとなっていきます。
1984年にペプシのCM撮影で、頭に大やけどを負った彼は、その後も頭皮の再生手術を受け、そのたびに激痛を抑える鎮痛剤を処方されていましたが、度重なるひどい状況の報告に頭皮の手術痕の痛みに加え、激しい偏頭痛にも見舞われ、徐々に鎮痛剤の服用が処方箋の量を超え始めていくのです。

ですがその間も、彼は自分を奮い立たせ、自分を待っている多くのファンに会う為ツアーを続行させています。
日本には9月7日~12日まで滞在し、福岡ドームで2回公演を行っています。
もう当時忌まわしい報道はなされていたため、ファンの不安を払拭するように素晴らしいパフォーマンスをおこなったマイケル。
有名なライブインブカレストと同じ構成のツアーですから、オープニングの爆発音と共に飛び出して、しばらくじっと微動だにしない演出とか、生で見れた人は本当に忘れないでしょうね。

しかし、問題の事態は悪くなる一方で、それに伴いマイケルの鎮痛剤への依存は高くなり、ついに11月、鎮痛剤中毒を認めたマイケルはこれ以上のツアー続行は不可能とし、DANGEROUSツアーは中止されてしまいます。
結局本国では一度も公演を行うことができなかったわけですが、そんな地獄の渦中に不安定な精神で帰れるはずもなく、しばらくイギリスの専門病院で薬物治療を受ける事となるのです。

驚くべき事は、こんな大変な時でも彼は人への思いやりを忘れていない人でした。
MJは今は亡きSONYの盛田会長をとても慕っていたようで、BADツアーで初来日した時に盛田さんのお宅を訪問し、それから親交を深め、92年の東京公演へも盛田会長夫妻を招待しています。
盛田さんの奥様がマイケルの思い出として綴られた記事がありますので、こちらからどうぞ

マイケルがこのでっちあげ恐喝事件に巻き込まれているさなか、10月に盛田さんも体調を崩されます。
すると盛田家にマイケルから1本のカセットテープが送られてきます。
テープは、マイケル自身の声で「あなたは必ずよくなる」という、ヒーリングメッセージが何度も繰り返されるものでした。
これを朝・昼・晩と必ず聴いてくださいという伝言と共に。
テープはマイケルの優しい声で「Mr.Morita・・」という呼びかけではじまります。

Mr. Morita・・・Mr. Morita・・Mr. Morita・・
This is Michael Jackson speaking・・・This is Michael Jackson speaking.
Please, get better…Please, get better now.
You are our visionary. You are our teacher. You are our leader.
You are our world.
You’ve taught me so much.
You are a very, very strong man, Mr. Morita. I believe in you.
Every day, in every way, I am healing better and better. Repeat these words in your deep subconscious mind.
I love you, Mr. Morita, and know that the whole world loves you and needs you, especially me.
I believe in miracles, and you have the courage and determination and the will-power.
I believe in you, Mr. Morita, so get better now.

盛田さん・・盛田さん・・盛田さん・・
マイケル・ジャクソンです・・マイケル・ジャクソンが話しています・・
どうぞ良くなってください・・ どうぞすぐに良くなってください
あなたは素晴らしい人です あなたは僕たちの先生です あなたは僕たちのリーダーです
あなたは僕たちの世界そのものです
あなたは沢山のことを僕に教えてくださいました
盛田さん、あなたはとても強い人だと僕は信じています
毎日、毎日自分はどんどん回復している 深い潜在意識でこの言葉を繰り返してください
僕は盛田さんを愛しています そして全世界があなたを愛し、あなたを必要としています 特に必要としているのはこの僕です
僕は奇跡を信じています そしてあなたは勇気と情熱と強い意志力を持っています
盛田さん だから必ずあなたは回復します 僕は信じています 



わたしが泣いてしまったのは、最後に「あなたを特に必要としているのは、この僕です」というマイケルの言葉でした。
このときのマイケルが置かれていた状況を考えると、洪水のように悪いことが押し寄せる中、ただその波にもまれながらも、一方ではエンターティナーとしての役割を果たさなくてはならず、しかし自身では、いったい何を信じたらいいのか、どうしたらいいのか、どうしてこんな事になってしまったのか、誰か助けて欲しいという切実な思いを感じずにはいられません。

盛田さんの奥様は、このテープを盛田さんが亡くなるまで、毎日聴かせ続けられたそうです。
わたしが思うに、このようなヒーリングプログラムはおそらくネバーランドにやってくる重病の子供たちへも行われているプログラムのひとつなのでしょう。
常日頃から重病の子供たちに向けて行われていることを、自分が敬愛する盛田さんにも「治ってほしい。元気になってほしい」その一心で。

「あなたは必ず回復します。僕は信じています」
マイケルと子供たちとの関わりは、盛田さんへの想いとなんら変わらず、そこには純粋な庇護しかありませんでした。

しかし、マイケルの富みに目がくらんだ大人は、どうにかして彼からお金を引き出そうと画策します。
それは、著作権に絡むものだったり、雇用や契約に絡む事だったりと、わけのわからない無意味な訴えが後を絶たなくなっていきます。
(そのどれもがほとんど判事により棄却されて終わる程度でしたが、裁判になったものも全てマイケルは勝訴しています)
そんな中で、93年のジョーディ少年の父親は、「マイケルが大切に想う子供」を手段に使うという、最も最悪で、最も卑劣な訴えをおこして彼からお金を奪おうとしました。
仮に息子が本当にそんな被害にあっているのなら、民事で賠償請求するよりも先に刑事事件として追求するのが親として当然なはずですが、告訴人サイドは、1日でも早く民事訴訟に勝利して、お金を請求したかったのが本音です。
全くの陰謀だったわけです。
(この後、法律が改正され、子供の虐待容疑では民事の訴えを先にする事はできなくなりました)

実は自分の子供を、父親が最も踏みにじって虐待したわけで、実際2005年に少年はこの父親を虐待で訴えています。(おせーよ。おっと失礼)

次回へ続きます。

本当に書きたかったことを (4)

MJが健在だった頃、わたしのような一般人向けに伝わってくる報道は
そのほとんどが未確認の噂やゴシップだったように思えます。
スクープとされる内容は「関係者筋」だの「マイケルに近い人物」だの「情報筋」だの(要は名前もわからないどこかの誰かさんってことです)が語る、しっかりとした取材も裏づけもないようなウソやでっち上げ。
要するに、情報ソースがでたらめな、事実とは異なる報道です。

やってもいない、言ってもいない事が、どかどかとニュースや記事になりました。
ところが、実際行われている事や、公に発言した言葉は驚くほど伝わらなかった。


マイケルをずっと応援してこられたファンの方々は、ファン同士のコミュニティや情報ネットワークでご存知だった事も、ファンとまではいかないけれど「いいよね、マイケル」レベルの人や普通の人には、全く届きませんでした。

そのひとつに、MJのネバーランドでの活動があります。

<ネバーランドとは>
ネバーランドの印象というものを、わたしの周りのMJに興味のない友人に聞いただけでも
「金に物をいわした道楽だなー」
「自分の家が遊園地って、あんた」
こんな感じです。

マイケルが自分の悦楽の為に作ったお金持ちの道楽の極み。
このようなイメージを持っている人は少なくないのではないでしょうか。

確かに2,700エーカー(11 km² )もの広大な牧場に、本格的な遊園地、動物園、、映画館、ゲームセンターがあり、それらの施設を楽しむための移動手段として、蒸気機関車が敷地内をゆっくりと走り、ゲストハウス、自宅としての母屋を含むパーク全体を独自の警備で守っている・・
これが個人の持ち物とは、驚くのは当然なのですが。

税金で作られた無駄な建物に比べれば、MJが自分のお金でどういう家を作ろうが勝手ですし、しかもこれは単なる家ではなく、大人も子供も(特に子供ですが)自由に楽しんでもらう事を目的に作られた、完全無料の複合施設であったのです。
ここへ招待されたのは、主にNPO(非営利団体)が運営する福祉をはじめとする子供の団体や病気の子供たち、地域の子供たちなどでした。
もちろん、このパークに従事する70名ほどの従業員の子供たちも。

年に一度、従業員とその家族にだけ解放するFamily dayが設けられていました。
当然無料で、1日中親子で楽しめます。
ハンパない福利厚生です。

経済事情や病気など、色々な事情で普段遊べない子供たちに、思いっきり楽しく過ごしてもらうためのさまざまなアトラクションやイベントはもちろん、パーク内は食べ放題の飲み放題の、乗り物乗り放題のゲームし放題(ゲーム機にコイン入れがない!)の映画も見放題!
座って映画を鑑賞できない重病の子供用に、映画館にはベッドも備わっていました。
招待された子供は何万人にものぼります。
そんな子供の付き添いで訪れた大人も、思いっきり子供時代に帰って楽しく過ごす、まさに夢のような場所。

それがマイケルの作ったネバーランドでした。

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1993年6月号の「LIFE」誌に、マイケル自らランチ内を案内しているインタビューが掲載されています。
本当に数少ないまっとうな取材記事です。
全文和訳はこちらから読めます。

1995年4月に、「第2回 世界子供会議」という8歳から16歳までの子供を対象にした、「世界中の問題を話し合う」為の子供の会議が、ネバーランドで催されました。
(こんなことはニュースにならないのです)
マイケルのファンの方のお子様が、日本代表(4名)に選ばれた事で、親子共々ネバーランドへ招待された貴重な体験記があります。
真剣で素晴らしい会議の中身と、ネバーランドでの夢のような日々を、当時ファンクラブ会報向けに出された記事として綴られています。
ぜひ、こちらから一読してみてください。
ネバーランドの本質が、そして、MJがいかに次世代を担う子供たちを大切に思っているかが、きっとお解かりいただけると思います。


子供のためはもちろんですが、そこはマイケル自身の経験できなかった普通の子供の楽しみ、遊び、子供の好きなもの全てを投影した場所でもありました。
マイケルも子供たちと共に乗り物に乗って、動物とふれあい、好きなお菓子を食べながら映画を見たりゲームをしたり、池でスワンのボートに乗ったり、よく手入れされた庭にある「恵みの木」と名付けた木に登り、そこから景色を眺めながら「Heal The World」などの曲を作ったそうです。

彼は5.6歳頃からショービジネスの世界へ入りました。
ステージで歌い踊る喜びを手に入れた事の代償に、普通の子供の暮らしや楽しみを手放さねばなりませんでした。
大人になっても、世界中で大成功しても、その失った子供時代への憧れは持ち続けたままでした。
成功したあかつきに手に入れたいと思うものは、人それぞれでしょう。
高級車や大邸宅、高級リゾートでの別荘やプライベートジェットなどさまざまでしょう。
MJも欲しかったものを手に入れたのです。


しかし、このネバーランドはマイケルの夢の場所でもあり、そして悪夢の場所ともなっていきます。

善意の塊のMJは「子供はウソをつかないから安心してつきあえるんだ」と語っていました。
しかし、子供は時としてウソをつくこともあるのです。
そう、時として。

次回は彼の冤罪についてお話したいと思います。

■参考にさせていただいた記事および書籍
あなたの知らないマイケル・ジャクソン
Legend Of MOONWALK
マイケル・ジャクソン裁判~あなたは彼を裁けますか? アフロダイテ・ジョーンズ著
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gonpee2008

Author:gonpee2008
名前はakim
家族は主人と猫のゴン&ピー
いたってノーマル・・だけどMJバカw

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