Study the greats & Become greater その6
マイケルとジェフリーの最初のダンスレッスンは、1980年から83年まで続きます。
その間、マイケルはThrillerを出し、モータウン25でムーンウォークを披露し、ある意味一区切りといったタイミングで、ジェフリー自身もシャラマーを脱退し、自分の世界を広げるためにイギリスへ移ったことで一旦このレッスンは終わります。
その後1986年にジェフリーがアメリカへ戻り、彼らの関係は再び繋がります。
Beat Itのバックダンサーにも参加していた(これは知らなかった!)ジェフリーを見込んで、マイケルが当時「シカゴナイツ」(実はSmooth Criminal)というプロジェクトの話をしてきて、「Are you interested in working with me on this project? 僕と一緒に仕事をすることに興味はある?」と聞かれたことが、正式なコレオグラファーとしてのオファーとなったのだそうです。
マイケルからBADのためのダンサーオーディションを頼まれたジェフリーは、仲間のキャスパーとともにNYへ飛び、2日間でダンサーを選び、すぐに撮影に入らなければならないというバタバタの日々を過ごすことになります。
その切羽詰まった振付風景はマイケルのプライベートホームムービーでもお馴染みでした^^
Michael Jackson Private Home Movies Part 4 へGO!
振付の模様は 4:31~4:47です。
二人のEOファン、もといジェフリーとキャスパー映ってます^^

MJ: This is at rehearsal at the MC Palace(ヘルムズレイパレスホテル:現在はニューヨークパレスホテル), choreographing it
これはMCパレスでのリハーサル、振付してる んふふふふ!(なにがおかしいw)

BAD Michael: Once we get inside we go BAMBAMBAMBAMBAM! We gotta hold that a while
一度中に入ってから行こう、バンバンバンバン!で、しばらくそのまま。
MJ: We had two days to choreograph. I love that pressure.
振付けするのに2日しかなかった。僕はそんなプレッシャーは大好きだ

BAD Michael: It’s gotta be more tense!
ここはもっと張りつめなきゃ! キャスパーうんうんうなずく^^
力みすぎて血管きれないか心配w
と、こんな感じで振付を一緒に考え、もう一人のコレオグラファーであるグレッグ・バージと現場で手直しをしながら作られたBADのダンスだったのですね。

そーなんだよー!!うおー!
再びDDDインタビューより抜粋
--------------------------
Q:撮影は楽しかったですか
それはもう、これまでに経験したことがないほど楽しい撮影でした。
とにかく撮影中は面白いことばかりでした。
マイケルとわたしはしょっちゅう、何かにつけて笑いあっていました。
誰かが転んだり、何かちょっとしたことがあるたびに、マイケルが「Did you see that? 今の見た?」っていう合図を私に送って、お互いに笑い合うんです。
でも私たち以外の人はどうして私たちが笑っているのか理解していません。
演技に集中してもらうため、マイケルは決して他のダンサーの前で冗談を言ったりしませんでしたから。
でも私たちだけは他のみんなに気づかれないように笑い合っていましたね。
マイケルが私のことをこういう風に(真似をしながら)見ているのがわかるのです。
彼とうっかり目を合わせると、お互いに吹き出してしまうので、目を合わせないように必死にこらえていました。
---------------------------------
付き合い始めの初々しいバカップルが、自分たちだけの合図やサインでくすくす笑いあう・・みたいでいーなーいーなーいーなー\(^o^)/
1986年12月までBADの撮影をし、翌年2月にSmooth Criminalの撮影に入ります。
マイケルからずっと「シカゴナイツ」というプロジェクトだと信じ込まされていたジェフリーは、撮影中もSmooth Criminalだと知らずに「シカゴナイツ」の撮影だと思っていたそうです。
情報が漏れることを恐れたマイケルの、「敵をあざむくならまず味方から戦法」にまんまとはまったようですw
有名なアンチ・グラヴィティの動きもジェフリーのアイデアだったそう。
彼は1984年にポール・マッカートニーの映画(Give My regards to Broad Street)に出演していますが、その際映画の中であの傾く動きを取り入れています。
Silly Love Songs - PAUL McCARTNEY
映画の中、懐かしいポールのSilly love Songsにのせて、ジェフリーがアンチ・グラヴィティっぽい動きをするのは、3:41~3:59あたり。(最後らへんで妙につつつつーという感じのバックスライドもやってますw)
アンチ・グラヴィティの動き自体はチャップリンら無声映画時代からある動きだったようですが、ジェフリーはマイケルに「まだ誰もグループでこの動きをやったことはないから試してみようよ、何人かで集まってこの動きをやったら、きっと面白くなると思うよ!」と進言したそうです。
そのアイデアが取り入れられて、今となってはSmooth Criminalの代名詞ともなったアンチ・グラヴィティ。
さすがジェフリー、マイケル以外のダンサーの中では一番深く倒れていますw

や、どーもどーもごぶさたしてます
SF撮影時はピアノ線を使っていたようですが、あとから実際にライブで行うための、あの靴の仕掛けは紛れもなく本当に誰もやったことがなかった、それこそマイケルの特許ものだったという訳です。
彼らの繋がりは、その後も続きます。
1995年にマイケルのMJJプロダクションのレコードレーベルが発足した際、ジェフリーはコンサルタントとして参加したそうです。
その流れもあり、GhostsのSFでも振付顧問としてクレジットされています。

同じ顧問には、キャプテンEOでダンサーとして、振付にも参加した、元エレクトリックブガルーズのポッピン・タコことBruno Falconもいますね。
彼もマイケルのダンスに多大な貢献をした一人です。
興味深いのは、そのGhostsのエンドロールでダンサーとして多くの名前がクレジットされていますが、それとは一線を画すかのように一部のダンサーたちは別枠でクレジットされているということ。

Poppersとしてはポッピングというスタイルを確立させたエレクトリック・ブガルーズのブガルー・サムとポッピン・ピートのソロモン兄弟ら。
Rockersとしては、ロッキングというスタイルの創始者であるドン・キャンベルら。
彼らもGhostsに参加していたのですね。
ユーコさんやトラヴィスでさえ探すのが面倒なのにむずかしいのに、誰がここに出ている、なんてもう絶対無理無理w
このシリーズ(その4)や過去にも何回も書いてることですが、マイケルのダンススタイルには、本当に数多くのダンサーたちの動きが取り入れられていますよね。
当時LAスタイルと呼ばれたポッピング、ロッキング等々の新しい動きをいち早く取り入れた、あるいは創りだしたダンスを愛するダンサーたち。
ジェフリー自身も、昔からある動きとはいえ、新しいスタイルとしてバックスライドを行っていたエレクトリック・ブガルーズにインスパイヤされたと認めていますし、多くのダンサーがそれぞれの動きに触発され、さらに磨きをかけ、切磋琢磨していた時代。
マイケルは元々自分のスタイルとして、アステアはじめとする彼の憧れのエンターテイナー達の踊りを自分の感性やセンスで創りあげた自分流のダンスに融合させていたわけですが、まさに1970年代の後半から新しいダンスの潮流を感じて、それらの達人たちを振付師やダンサーとして招いて一緒に踊ることで、さらに踊りに磨きをかけていったのだと思います。
ThrillerやキャプテンEOを経て、BAD、Smooth Criminal、そのほか数多くの曲を踊る過程の中に、関わってくれた新しいダンスの先人的役割を果たしたダンサーたち。
マイケルは自分のダンスが飛躍するための重要なファクターを、関わりの程度の差こそあれ先人的な彼らから得たことを、きちんと伝えたかったのかもしれません。
だからこそのDancer枠ではなく、彼らはポッピングの達人、ポッパーであり、ロッキングを確立したロッカーだとあえて。
マイケルはダンスに愛情と敬意をいつも持っていた、とタップのドーメシアも語っていました。
このクレジットが、マイケルの彼らへの感謝と敬意の気持ちの表れなのではないかなと感じました。
(たいした意味はなかったかもしれないし、単なる勘なんですが)
これもある意味、マイケルの Study the greats and Become greater を表しているように思えてしまいます。

専門的な意見を書き込む掲示板で、キャプテンEOの頃はあきらかに後で踊るポッピン・タコたちエレクトリック・ブガルーズのメンバーよりポッピングの技術は劣るのに、数年後には専門的なダンサーに引けを取らないほどすごくなっている、という書き込みを見ました。
そこが高みの追及を決してやめない、彼らしいところではないかと。
研究して学んで、成長したい、そしてさらにはそれ以上の革新を成し遂げたいという強い気持ち。
「彼はそれらの動きを自分のものにし、さらに発展させていったのです」
と、ジェフリーも言っている通り、これこそがマイケルをマイケル・ジャクソンたらしめる理由。
その先の革新へと、限界を設けずに進む。
あるひとつのダンスの動きでは、マイケルよりも素晴らしい技術を持つ人はそれこそごまんといるのでしょうが、なぜかマイケルには「上手い」を通り越して惹きつける「何か」があるんですよね。
理屈ではない「マイケル・ジャクソン」というスタイルだと言わしめるものが。
これまた別のジェフリーのインタビューから一部(source:Bad Choreographer Remembers Michael Jackson)
彼は色々な事を、色々な人から取り出すんだ・・
サミー・デイビスJr.から、エルヴィスからほんの少し、ジェームズ・ブラウンからも少々、ボブ・フォッシーからいくつか、フレッド・アステアからも、そしてストリートで起こっていることからもね。
そうしてそれらを組み合わせるんだ。全部を混ぜ合わせるんだよ
-----------------------------
マイケルと接した本当に多くの人たちが同じように言いますね。
スポンジのように吸収して自分のものにしてしまうと。
彼の自然な優美さ、リズム感、そして自分が面白いと感じたところなら誰のものでもどこからでも、その考えや技術を吸収してしまう驚くべき柔軟性が、マイケル・ジャクソンスタイルを創りあげた。
彼はひとり、ネバーランドのダンススタジオで、尊敬すべき先人たちから影響されたものや、彼のアンテナが反応したもの・・それは幼い日に観た憧れの人のステージの記憶から、古いミュージカル映画から、タップから、ジャズから、バレエから、そしてストリートで生まれた新しいダンスからの動きを、黙々と研究し取り入れ、そして統合していったのですね。
学んで研究するまでは、誰でもできそうなことですが、絶妙なバランスで、さまざまなものをうまく調合する、というのは、実はなかなか難しい事ではないでしょうか。
マイケルは脅威的な独創性をもってそれを成し遂げた。
その努力の果てに完成されたものは完全なオリジル、マイケル・ジャクソンスタイルとなりました。
彼のこの、もはや自分の使命かのような信念は、ダンスのみならずマイケル・ジャクソンを物語る全ての分野を網羅するほど多岐にわたって貫かれました。
自然な呼吸と同じ感覚になるまで学び
自分を形作る細胞と同化するまで練習し
そのうえで、その先の境地へと、その先の高みへと手を伸ばし続けた人。
彼のその献身的な情熱は、崇高で美しく、だからこそ、その果てに彼から世に放たれた、彼の全身全霊をかけて創りだされた楽曲たちやパフォーマンス、ステージングや演出、そして映像作品たち・・
それらは、公正に評価されてしかるべきなのです。
BAD25の成功は、曇りのない目で見ればあきらかな、その作品たちの素晴らしさを再び世界中が認めた証なのでしょう。
By the talent given me by God
Training cultivating it.
Studying the greats in my field and becoming greater.
like a scientist searching persistent
confident to be the Best.
Study the greats and become greater.
Reach the Zenith of my ability as an actor singer dancer. M.J.
神から与えられた才能
それを耕すトレーニング
自分の分野の偉人から学んで、より大きくなること
根気よく研究する科学者のように
ベストである自信をもつ
素晴らしい先人から学び、彼らを超えること
俳優・シンガー・ダンサーとしての自分の能力の頂点に達する M.J.
すでにバカみたいに長くなってしまいました
最後はやはりジェフリーのDDDインタビューより抜粋させてもらってお別れします^^
-----------------------------------

彼はナンバーワンになりたがっていた。
最高のアーティストになりたがっていたのです。
ナンバーワンになることが、彼の使命だとわかっていたのです。
彼は同世代のR&Bシンガーではなく、チャーリー・チャップリンやジェームス・ブラウン、サミー・デイヴィスJr.をリスペクトし、熱心に勉強していました。
彼の世代より前の偉大なエンターテイナー達をです。
彼自身が偉大なエンターテイナーになるためにです。
He studied great entertainer, so that he could become a great entertainer himself.
その間、マイケルはThrillerを出し、モータウン25でムーンウォークを披露し、ある意味一区切りといったタイミングで、ジェフリー自身もシャラマーを脱退し、自分の世界を広げるためにイギリスへ移ったことで一旦このレッスンは終わります。
その後1986年にジェフリーがアメリカへ戻り、彼らの関係は再び繋がります。
Beat Itのバックダンサーにも参加していた(これは知らなかった!)ジェフリーを見込んで、マイケルが当時「シカゴナイツ」(実はSmooth Criminal)というプロジェクトの話をしてきて、「Are you interested in working with me on this project? 僕と一緒に仕事をすることに興味はある?」と聞かれたことが、正式なコレオグラファーとしてのオファーとなったのだそうです。
マイケルからBADのためのダンサーオーディションを頼まれたジェフリーは、仲間のキャスパーとともにNYへ飛び、2日間でダンサーを選び、すぐに撮影に入らなければならないというバタバタの日々を過ごすことになります。
その切羽詰まった振付風景はマイケルのプライベートホームムービーでもお馴染みでした^^
Michael Jackson Private Home Movies Part 4 へGO!
振付の模様は 4:31~4:47です。
二人のEOファン、もといジェフリーとキャスパー映ってます^^

MJ: This is at rehearsal at the MC Palace(ヘルムズレイパレスホテル:現在はニューヨークパレスホテル), choreographing it
これはMCパレスでのリハーサル、振付してる んふふふふ!(なにがおかしいw)

BAD Michael: Once we get inside we go BAMBAMBAMBAMBAM! We gotta hold that a while
一度中に入ってから行こう、バンバンバンバン!で、しばらくそのまま。
MJ: We had two days to choreograph. I love that pressure.
振付けするのに2日しかなかった。僕はそんなプレッシャーは大好きだ

BAD Michael: It’s gotta be more tense!
ここはもっと張りつめなきゃ! キャスパーうんうんうなずく^^
力みすぎて血管きれないか心配w
と、こんな感じで振付を一緒に考え、もう一人のコレオグラファーであるグレッグ・バージと現場で手直しをしながら作られたBADのダンスだったのですね。

そーなんだよー!!うおー!
再びDDDインタビューより抜粋
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Q:撮影は楽しかったですか
それはもう、これまでに経験したことがないほど楽しい撮影でした。
とにかく撮影中は面白いことばかりでした。
マイケルとわたしはしょっちゅう、何かにつけて笑いあっていました。
誰かが転んだり、何かちょっとしたことがあるたびに、マイケルが「Did you see that? 今の見た?」っていう合図を私に送って、お互いに笑い合うんです。
でも私たち以外の人はどうして私たちが笑っているのか理解していません。
演技に集中してもらうため、マイケルは決して他のダンサーの前で冗談を言ったりしませんでしたから。
でも私たちだけは他のみんなに気づかれないように笑い合っていましたね。
マイケルが私のことをこういう風に(真似をしながら)見ているのがわかるのです。
彼とうっかり目を合わせると、お互いに吹き出してしまうので、目を合わせないように必死にこらえていました。
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付き合い始めの初々しい
1986年12月までBADの撮影をし、翌年2月にSmooth Criminalの撮影に入ります。
マイケルからずっと「シカゴナイツ」というプロジェクトだと信じ込まされていたジェフリーは、撮影中もSmooth Criminalだと知らずに「シカゴナイツ」の撮影だと思っていたそうです。
情報が漏れることを恐れたマイケルの、「敵をあざむくならまず味方から戦法」にまんまとはまったようですw
有名なアンチ・グラヴィティの動きもジェフリーのアイデアだったそう。
彼は1984年にポール・マッカートニーの映画(Give My regards to Broad Street)に出演していますが、その際映画の中であの傾く動きを取り入れています。
Silly Love Songs - PAUL McCARTNEY
映画の中、懐かしいポールのSilly love Songsにのせて、ジェフリーがアンチ・グラヴィティっぽい動きをするのは、3:41~3:59あたり。(最後らへんで妙につつつつーという感じのバックスライドもやってますw)
アンチ・グラヴィティの動き自体はチャップリンら無声映画時代からある動きだったようですが、ジェフリーはマイケルに「まだ誰もグループでこの動きをやったことはないから試してみようよ、何人かで集まってこの動きをやったら、きっと面白くなると思うよ!」と進言したそうです。
そのアイデアが取り入れられて、今となってはSmooth Criminalの代名詞ともなったアンチ・グラヴィティ。
さすがジェフリー、マイケル以外のダンサーの中では一番深く倒れていますw

や、どーもどーもごぶさたしてます
SF撮影時はピアノ線を使っていたようですが、あとから実際にライブで行うための、あの靴の仕掛けは紛れもなく本当に誰もやったことがなかった、それこそマイケルの特許ものだったという訳です。
彼らの繋がりは、その後も続きます。
1995年にマイケルのMJJプロダクションのレコードレーベルが発足した際、ジェフリーはコンサルタントとして参加したそうです。
その流れもあり、GhostsのSFでも振付顧問としてクレジットされています。

同じ顧問には、キャプテンEOでダンサーとして、振付にも参加した、元エレクトリックブガルーズのポッピン・タコことBruno Falconもいますね。
彼もマイケルのダンスに多大な貢献をした一人です。
興味深いのは、そのGhostsのエンドロールでダンサーとして多くの名前がクレジットされていますが、それとは一線を画すかのように一部のダンサーたちは別枠でクレジットされているということ。

Poppersとしてはポッピングというスタイルを確立させたエレクトリック・ブガルーズのブガルー・サムとポッピン・ピートのソロモン兄弟ら。
Rockersとしては、ロッキングというスタイルの創始者であるドン・キャンベルら。
彼らもGhostsに参加していたのですね。
ユーコさんやトラヴィスでさえ探すのが
このシリーズ(その4)や過去にも何回も書いてることですが、マイケルのダンススタイルには、本当に数多くのダンサーたちの動きが取り入れられていますよね。
当時LAスタイルと呼ばれたポッピング、ロッキング等々の新しい動きをいち早く取り入れた、あるいは創りだしたダンスを愛するダンサーたち。
ジェフリー自身も、昔からある動きとはいえ、新しいスタイルとしてバックスライドを行っていたエレクトリック・ブガルーズにインスパイヤされたと認めていますし、多くのダンサーがそれぞれの動きに触発され、さらに磨きをかけ、切磋琢磨していた時代。
マイケルは元々自分のスタイルとして、アステアはじめとする彼の憧れのエンターテイナー達の踊りを自分の感性やセンスで創りあげた自分流のダンスに融合させていたわけですが、まさに1970年代の後半から新しいダンスの潮流を感じて、それらの達人たちを振付師やダンサーとして招いて一緒に踊ることで、さらに踊りに磨きをかけていったのだと思います。
ThrillerやキャプテンEOを経て、BAD、Smooth Criminal、そのほか数多くの曲を踊る過程の中に、関わってくれた新しいダンスの先人的役割を果たしたダンサーたち。
マイケルは自分のダンスが飛躍するための重要なファクターを、関わりの程度の差こそあれ先人的な彼らから得たことを、きちんと伝えたかったのかもしれません。
だからこそのDancer枠ではなく、彼らはポッピングの達人、ポッパーであり、ロッキングを確立したロッカーだとあえて。
マイケルはダンスに愛情と敬意をいつも持っていた、とタップのドーメシアも語っていました。
このクレジットが、マイケルの彼らへの感謝と敬意の気持ちの表れなのではないかなと感じました。
(たいした意味はなかったかもしれないし、単なる勘なんですが)
これもある意味、マイケルの Study the greats and Become greater を表しているように思えてしまいます。

専門的な意見を書き込む掲示板で、キャプテンEOの頃はあきらかに後で踊るポッピン・タコたちエレクトリック・ブガルーズのメンバーよりポッピングの技術は劣るのに、数年後には専門的なダンサーに引けを取らないほどすごくなっている、という書き込みを見ました。
そこが高みの追及を決してやめない、彼らしいところではないかと。
研究して学んで、成長したい、そしてさらにはそれ以上の革新を成し遂げたいという強い気持ち。
「彼はそれらの動きを自分のものにし、さらに発展させていったのです」
と、ジェフリーも言っている通り、これこそがマイケルをマイケル・ジャクソンたらしめる理由。
その先の革新へと、限界を設けずに進む。
あるひとつのダンスの動きでは、マイケルよりも素晴らしい技術を持つ人はそれこそごまんといるのでしょうが、なぜかマイケルには「上手い」を通り越して惹きつける「何か」があるんですよね。
理屈ではない「マイケル・ジャクソン」というスタイルだと言わしめるものが。
これまた別のジェフリーのインタビューから一部(source:Bad Choreographer Remembers Michael Jackson)
彼は色々な事を、色々な人から取り出すんだ・・
サミー・デイビスJr.から、エルヴィスからほんの少し、ジェームズ・ブラウンからも少々、ボブ・フォッシーからいくつか、フレッド・アステアからも、そしてストリートで起こっていることからもね。
そうしてそれらを組み合わせるんだ。全部を混ぜ合わせるんだよ
-----------------------------
マイケルと接した本当に多くの人たちが同じように言いますね。
スポンジのように吸収して自分のものにしてしまうと。
彼の自然な優美さ、リズム感、そして自分が面白いと感じたところなら誰のものでもどこからでも、その考えや技術を吸収してしまう驚くべき柔軟性が、マイケル・ジャクソンスタイルを創りあげた。
彼はひとり、ネバーランドのダンススタジオで、尊敬すべき先人たちから影響されたものや、彼のアンテナが反応したもの・・それは幼い日に観た憧れの人のステージの記憶から、古いミュージカル映画から、タップから、ジャズから、バレエから、そしてストリートで生まれた新しいダンスからの動きを、黙々と研究し取り入れ、そして統合していったのですね。
学んで研究するまでは、誰でもできそうなことですが、絶妙なバランスで、さまざまなものをうまく調合する、というのは、実はなかなか難しい事ではないでしょうか。
マイケルは脅威的な独創性をもってそれを成し遂げた。
その努力の果てに完成されたものは完全なオリジル、マイケル・ジャクソンスタイルとなりました。
彼のこの、もはや自分の使命かのような信念は、ダンスのみならずマイケル・ジャクソンを物語る全ての分野を網羅するほど多岐にわたって貫かれました。
自然な呼吸と同じ感覚になるまで学び
自分を形作る細胞と同化するまで練習し
そのうえで、その先の境地へと、その先の高みへと手を伸ばし続けた人。
彼のその献身的な情熱は、崇高で美しく、だからこそ、その果てに彼から世に放たれた、彼の全身全霊をかけて創りだされた楽曲たちやパフォーマンス、ステージングや演出、そして映像作品たち・・
それらは、公正に評価されてしかるべきなのです。
BAD25の成功は、曇りのない目で見ればあきらかな、その作品たちの素晴らしさを再び世界中が認めた証なのでしょう。
By the talent given me by God
Training cultivating it.
Studying the greats in my field and becoming greater.
like a scientist searching persistent
confident to be the Best.
Study the greats and become greater.
Reach the Zenith of my ability as an actor singer dancer. M.J.
神から与えられた才能
それを耕すトレーニング
自分の分野の偉人から学んで、より大きくなること
根気よく研究する科学者のように
ベストである自信をもつ
素晴らしい先人から学び、彼らを超えること
俳優・シンガー・ダンサーとしての自分の能力の頂点に達する M.J.
すでにバカみたいに長くなってしまいました
最後はやはりジェフリーのDDDインタビューより抜粋させてもらってお別れします^^
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彼はナンバーワンになりたがっていた。
最高のアーティストになりたがっていたのです。
ナンバーワンになることが、彼の使命だとわかっていたのです。
彼は同世代のR&Bシンガーではなく、チャーリー・チャップリンやジェームス・ブラウン、サミー・デイヴィスJr.をリスペクトし、熱心に勉強していました。
彼の世代より前の偉大なエンターテイナー達をです。
彼自身が偉大なエンターテイナーになるためにです。
He studied great entertainer, so that he could become a great entertainer himself.
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