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マイケルの言葉を知りたくて その2

前回の続きです。
今回は特に強烈にだらだら長いですよw
時間があって、だらだら続く長話を我慢強く読める忍耐力のある人だけ、マイケルのお寿司エピソード、Here we go!\(^o^)/

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またもやある日、マニュエルというマイケルお気に入りの(と、バーニーが思っている)スタッフの運転でマイケルとバーニーは、食事のためにサンタバーバラへと車を走らせていました。
ステート・ストリート沿いに日本食レストランを見つけたマイケルが、地元に詳しいバーニーにいいお店かどうか尋ね、バーニーが保証するよと太鼓判を押したので、マイケルは「いいね、あそこにしよう」と決めました。
マニュエルは、彼らのスモークガラスで中が見えないロールスロイスを駐車場に止めます。

バーニーは客は今いないからレストランに入って食べないかと提案します。

”Michael said, “Barney, I wish I could but you don’t know what you’re asking.
We could actually get hurt.
People, as well meaning as they might be, will crowd around and push and shove to the point where it actually gets scary.
Besides, I've learned from past experience that someone would make a list of what I ordered and then have some psychiatrist draw some ridiculous conclusions about my state of mental health from the food that’s on the table.
I know that happens because I went to a drug store once and I bought toothpaste, a toothbrush, shampoo, some razors, and evaluate my personality.”

With a laugh, Michael concluded,
“So I’ll just settle for here in the car.”

「バーニー、僕だってそうしたいよ。でも君はわかってない。
実際僕らは怪我をするところだった。
人というのは・・当然だけど悪気はないのだろうと思う、でも彼らはこちらが怖くなるぐらい、わーっと群がって突進して押してくるのさ。


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怖い群衆。せっかくサインをしようとしてくれているMJの頭に触るわ、肩掴むわ、腕引き寄せるわ・・ちょっとでも触りたいって気持ちの表れ?でもこういうのには共感できないな・・

そのうえ、誰かが僕のオーダーしたものをリスト化したり、どこかの精神科医にテーブルの上に乗った料理から僕の心の健康状態についてバカバカしい結論を出させるってことを、僕は過去の経験でわかっているんだ。
以前、ドラッグストアに行って歯みがき、歯ブラシ、シャンプー、何本かカミソリを買ったら、それだけで僕の性格を判断するんだから、今回もそうなるのは目に見えてるよ」

マイケルは笑いながらこう締めくくりました。
「だから、僕は車の中で我慢するよ」


とその提案を却下。
なのでバーニーがマイケルの食べたいネタを買ってきて、車の中で食べようということになりました。


・・こういう部分はやっぱり切ない。
カウンターに座って、あれ、これ、とリクエストして握ってもらいながら、新鮮なネタのお寿司を食べさせてあげたかったね・・
確かに来日した時もそうでしたけど、MJは何を食べたとかやっぱり話題になってしまう。
買い物も何を買った、どれぐらいの金額だった、と何をやっても後から分析されてしまう。
そのことを思慮の浅いコメンテーターが、知ったかぶって単なる憶測をさも真実のように断言したりする・・

わたしはそういう意味では、バカげた分析をする精神科医と同じなのかな・・
マイケルの好きな香水、好きな本、好物とか普通に興味があるし、そこからいつもいろいろ思いを馳せちゃうしね。
だからこの本も買ったわけで・・


・・・



マイケル・・すまそん・・ (´;ω;`)


そういえば、もうずっと前に、マイケルんちのプライベートシェフだったKai Chase(カイ・チェイス)が「マイケルの好きだったオーガニック・ビート(ビーツ)ジュース」ってレシピをTVで実演してたからどうしても飲んでみたくなって。
材料は、ニンジン、セロリ、リンゴ、ビート(全てオーガニックのもの)。

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皮つきで4つに切って好きなだけぱかぱかジューサーにいれるだけ!
とってもイージー^^ ところがよ。
生のオーガニックビートって1個600円以上するし近所に売ってないしで、自分で作るのはあっという間に挫折しました(´・ω・`)

カイさんのお話は、いまさらここに書かなくてもご存じでしょうから詳しい事は省きますけれど、ラリー・キングの番組(CNN LARRY KING LIVE)に出演した時(実際はほとんどあの日の話だから辛くていやなんだけど)の印象深い彼女の話を少し紹介しますね(ひょっとしてこれって話脱線してる?w)

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source:CNN LARRY KING LIVE Transcript

彼女は3月からMJ家のプラベートシェフの仕事につきますが、5月に一旦解雇されます。
でもMJファミリーから再度請われて6月3日に復帰し、ロンドンへも同行が決まっていました。
番組ではMJがちゃんと食べていたのか?という点を何度も確認しますが、彼女は「子供たちと囲む食事はしっかりと食べていたし、リハにはお弁当も持っていっていた」ということを、これまた何度も答えています。

”When I came back in June, the third day in, he had asked me - he had pulled me to the side and he said, you know, he told me,
I need you. I know you know what you're doing. You do a very good job.
I want you here. I need you to be here. I need you to keep feeding me healthy.
Do you have my beet juice? Do you have my organic juices, my -- my healthy food?
I need to stay healthy and strong.

He was excited about this tour.

わたしが復帰した6月3日、彼はわたしを自分のそばにひっぱって言いました。

君が必要だ。君の仕事ぶりはわかっている。本当によくやってくれているよ。
だからここにいて欲しいんだ。ここにいてもらいたいんだよ。僕への健康的な食事管理を続けてもらいたい。
僕のビートジュースはある?オーガニックジュースやヘルシーな食事の用意はあるよね?
僕は丈夫で健康な体を維持しなくちゃいけないんだ。


彼はTIIツアーにわくわくしていたんです。”

ラリーの「彼は固形物もちゃんと食べていました?」の質問にも彼女は
「ええ、もちろん。ガンボやケンタッキーのフライドチキン、バーベキューチキンや軸付きのトウモロコシとか・・子供たちと一緒にね」と答えています。

彼女はマーレー裁判でも「しっかり食べていた」と証言しましたけれど、「弱っていて何も食べなかった」という側面の証言もありました。
彼は子供たちと一緒にテーブルを囲む時は楽しく食事できたのかもしれない。
ひとたびハードなリハに入ると、食べることを忘れたのか、もしくは食べられなかったのか・・。
どちらも理解できるような気がします。

ファンにすれば、TIIの意欲満載で、体力つけなきゃって子供たちとぱくぱくKFCを食べて笑ってるMJでいてほしいよね・・

ハッ!今回はそっちの方向ではないんだったw

この番組では他にもプリンスの「ガンボを作ってくれてありがとう」、パリスの「パパが大好きなアプリコットをありがとう」という手紙も紹介されていましたね。(優しいお子達)
ガンボはアメリカ南部の郷土料理でオクラが入った煮込みスープなんですが、わたしも大好き!\(^o^)/
この時ラリーが「マイケルはアプリコットが好きだったのですか?」と聞くと彼女は「オーガニックのね」と答えていました。杏を生で食べたことなかったからさっそく食べてみたのだけれど、強烈に酸っぱくてめまいがしましたw 
ジャムとかコンポートにすればいいのだけど・・(そないな手間はかけられん)

彼女が思い出すのは4月のある日の夕方、2階から降りてきた素敵なマイケル^^
「彼は黒のストレートのジーンズと黒のジャケット姿で、黒のサングラスと携帯を持っていました。そして私にこう言いました。「Do you look like Dionne Warwick? 君、ディオンヌ・ワーウィックに似てるって言われない?」

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Dionne Warwick and Kai Chase

あ~・・似てる・・っちゃ似てるし似てないっちゃ似てないし・・でも・・ま、似てるね!うん似てる似てる!(ほんまか?w)さすが気配りのkingだわw

でも4月なら例のスタイリストの鉄の掟アドバイスが染み渡ってる頃。
当然パジャマも着ないでステキマイケルだったのね。
一分の隙もないマイケルって、ちょっと物足りないけど、やればできるKingってことで目をつぶるわ^^

で、えーと・・

とにかく、誰だってこういう記事を読むと「My beet juice」が作りたくて飲みたくなるでしょう?
だから頭の中でいつもどこかにあったのね。
したらある時気付いたの。
カゴメの「カゴメ野菜生活100 紫の野菜」の中に「ビート・セロリ・ニンジン・リンゴ」がしっかり入ってるじゃん!ってことを!\(^o^)/
捨てる神あれば拾う神あり!神様、あたしを拾ってくれてありがとう!

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赤枠で囲ってみたわ^^

いらん材料も入ってるけれど、この際目をつぶったわ。
それからは毎朝飲んでます。
ああ、「僕のビートジュース」と同じ成分に、若干、ていうか相当いらん成分混じってるけど、当たらずとも遠からず的なジュースを今あたしゃ飲んでるよ・・嬉しいよマイケル・・美味しいわ^^

そういう健気(?)な気持ちなだけであって、あなたのプライベートを覗き見したいとかそういんじゃないの!
わかって、マイケル! (`Д´)

そうそう、それがね(まだ脱線する気か)
この「ビート・セロリ・ニンジン・リンゴ」っていうのはね。
ビートが紫だから、野菜生活100シリーズでは「紫の野菜」にしか入ってないんだろうと思ったらね。
なんと、シリーズほとんどにこの材料が使われてたんですのよ奥様!
全シリーズの成分表はこちらでチェケラ!
スーパーやコンビニでなーんも考えずに手に取っても、そこには「ビート・セロリ・ニンジン・リンゴ」のMJジュースの材料が入ってるの!

でも実際「僕のビートジュース」は紫一色のジュースだから、今後もわたしは「カゴメ野菜生活100 紫の野菜」いっぽんでいきます!w
でもやっぱり、けちけちしないで600円のオーガニックビート買って作ってみようかな


・・しかしジュースひとつでこの大騒ぎ・・(苦笑)


こういう時にいつも頭をかすめるのは、93年のオプラのインタでマイケルが言った言葉。
(肌が白い事をとやかく詮索する噂に対して)

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・・But you know what’s funny, why is that so important?
That’s not important to me.
I’m a great fan of art, I love Michelangelo,
if I had the chance to talk to him or read about him I would want to know what inspired him to become who he is, the anatomy of his craftsmanship, not about who he went out with last night…
what’s wrong with…I mean that’s what is important to me.

・・それを知って何が面白いの?どうしてそれがそんなに重要なんです?
僕には全然重要じゃない。
僕は芸術の大ファンです。ミケランジェロが大好きで。
もし僕が彼と話せたり、彼に関するものを読めるチャンスがあれば、彼の素晴らしい技術の分析や、彼が現在の彼になるために刺激を受けたものを知ろうとしますね。僕にとってはそういうことが重要なんであって、彼が昨夜誰と出かけたとか、どうしたのかということではないんです。



そうですそうです!
あなたが誰と付き合ったかとか結婚していたかとか、ナンパしたとかそんなの全然興味ありませんからw
でもあなたの好きなものとかにちょこっとだけ興味あるだけなんです。
だってお寿司とかあたしも好きだし、好きなものを好きな人が好きってんなら嬉しいじゃないですかー
あたしの好奇心は全部あなたに向いてるんですー
そこんとこ夜露詩句! (`Д´)


てことで、続き続きw
えーと、日本食レストランでお寿司食べようってなったけど、騒ぎになるのを怖れたマイケルがテイクアウトを希望した、てところからですね^^

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マイケルは、メニューは選べないから全部を少しずつ食べたいというリクエストを出したので、バーニーはテイクアウトのお寿司をいっぱい詰めた箱とお味噌汁を3人分買って車に戻りました。

全部の種類を少しずつってマクドナルドでもやってたパターンですね^^
お味噌汁も飲んだのねー素敵んぐ!

この時バーニーがお寿司代を払ったのですが、日頃お世話になりっぱなしのマイケルに、大した事できないけれど、今日の夕食をごちそうできた事がとっても嬉しかったと書いています。なんだかいい人^^

マイケルがまずつまんだのはイクラの軍艦巻きでした。
(原文では、マヨネーズみたいなソースもかかっていたらしいのだけど・・w 美味しそうな気もするw)

バーニーは黒い海藻(海苔のことね)もさることながら、キャビアは好きだけどイクラの生臭さがどうしてもなじめない、なのにマイケルが高さ2インチ(約5cm)もあるイクラ山盛りの海藻巻きを一口で食べてしまうのを見て、筋金入りの寿司好き人間は(the staunchest of sushi eaters:原文)こんなのも平気なんだと感心しますw
ちょっと笑ってしまったバーニーを見あげて、マイケルも笑いながら「どうしたの?」
「それ、おいしいかい?」
マイケルは「Yeah!」と言って次はウニをぱくつきました。
またもやバーニーは驚愕w
採れたてのウニをビーチで食べるならまだしも、(実はサンタバーバラの名物はウニ!)時間がたったウニを食べるなんて、マイケルの味覚はちょっと普通じゃないんじゃないか、マイケルは家でも塩だとかの調味料を料理にかけないし、味覚のどこかが欠乏してるんじゃないかとまで思っちゃうのですw(P59~60)

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はい、バーニーわかってないぞー^^

わたしたちにとっては、ウニやイクラを美味しく食べるマイケルの味覚は正常ですww
塩とかをかけずに素材の味を楽しむあたり、元ベジタリアンなんだもん、当たり前田のクラッカーなのよ。

バーニー医師は生まれ育ったロスオリボス(ネバーランドの地元)からあまり出たことないんだなー。
典型的なアメリカンな味覚の持ち主なのね。アメリカの人ってケチャップとかなんでもかけるもんな~w

しかしイクラもウニも全然平気だったなんて、ここまでsushi eatersだったなんて・・感動でオババの目にはうっすらと涙が(うそ)
サーモンやトロや鉄火なんておちゃのこさいさいなはずだわ。
かっぱ巻きなんて屁のかっぱよね



これでマイケルがただのお寿司好きなんかじゃなくて、正統派で筋金入りのお寿司大好き人間だったことが、さらに実証されました!\(^o^)/


ここでまた脱線しますよw

実はここまで書いて、何気にTwitter情報の中に、パリスちゃんと母であるデビーが、パリスちゃんの15歳のお誕生日を祝ったという記事を見て。
自然に「お母さん」という存在と良い関係が始まるのは、きっとマイケルも喜んでいると思うわ・・なんてしみじみ記事を読んでいたら。

彼女達が食事を楽しんだお店がね。
サンタバーバラのメインストリートである、ステート・ストリート沿いにあってね。
お寿司の日本食レストランだっていうね・・

お店のお名前は「Ahi Sushi」ここからお店の住所をチェキれます。

オーナーは寿司職人でもある日本人の方。
アメリカ好みのお寿司もあるけど、メニューの中にはシマアジやカンパチも^^ ちゃんとしたお寿司!
お味噌汁はちょっと微妙なスパイシーえび天入り味噌汁ってんだけど、ま、いいやねw

わたしはもう勝手に確信したわ・・マイケルが車で食べたお寿司はここのだって。
そしてそこのお店で誕生日を祝ったかつての妻と、愛する娘・・
単なる偶然!? まさか引き合わせたのはKingなの?

なーんて、ぜんっぜん違ってたらごめんあさせw でもそう思う方がなんだか幸せな気分にならない?^^



そうそう、お寿司ネタもう一つあったんでした。
バーニーの本ではなくて、マイケルのレコーディングエンジニアの (Rob Hoffman)ロブ・ホフマンさんの証言でw

彼はブルース・スウェデンの紹介でマイケルに会い、当時若干24歳でマイケルから抜擢されて、アルバムHIStory全曲を手掛けます。
こちらのありがたいサイトで、彼のMJエピソードを読むことができます。
ご存じの方は多いと思うけれど。

このエピソードのsourceは、どうもミュージシャンやエンジニア関係の人が書き込む掲示板だと思われます。
そこをわからないなりに訪れて、ロブの書き込みだけ探していた時に見つけたものです。

掲示板の質問に、律儀に答えるロブさん^^
その中にありました↓
source:http://www.gearslutz.com/board/so-much-gear-so-little-time/403276-post-here-if-you-worked-michael-jacksons-dangerous-album-9.html

質問:マイケルが使っていたヘア・ジェルの種類は何ですか?
スタジオではどんなものを食べていたのですか?
彼が使っていたコロンは何ですか?

Rob:Not sure as he wore his signature hat most days.
He generally ate sushi (with a lot of wasabi) when he ate at all.
He did wear cologne, but the brand escapes me. . . . .

(ヘア・ジェルに関しては)彼はほとんどあの象徴的な帽子をかぶっていたのでよくわからないな
彼が何か食べる時は、だいたい寿司(わさびたっぷりの)だよ
コロンはつけていたけれど、ブランドは忘れてしまったよ

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わさびたっぷりのw寿司!
やっぱり通だよ、通!Sushi Eaterだよね!\(^o^)/

しかも彼が答えたのはHistory録音時のスタジオでの話。
スタジオの場所はNY。
最初の寿司話ででたNYの日本食レストランでテイクアウトしていた話と合致しますね。

お寿司に関するエピソードはこれでおしまいなのですが、バーニーの本にはその他にも心揺さぶられたり、ほんわかしたりするエピソードがたくさんありました。

ある意味バーニーはマイケルを知っているようで全然知らない、普通の人です。
だからこそマイケルは居心地よかったのかもしれない。
自分に必要以上に要求も期待もしない、わかったふうなことも言わない、対抗しようなんて気もない、ただ自分を好ましく思ってくれている普通の人だったから・・じゃないかと思ったりしました。

最後にもうひとつだけご紹介。

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バーニーとマイケルが出逢った日に、いきなりネバーランドでの夕食に招待されたバーニーの息子さんのメイソン。
マイケルはバーニー親子をレゴで作られた等身大ダース・ベーダ―のある自分のおもちゃ部屋(クロゼット)へ案内して、引き出しから色々なおもちゃを出し、メイソンが何に興味をもつかわくわくした感じで彼を観察していました^^

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これがそのレゴで作られたダース・ベーダ―

メイソンはダース・モールのゴムマスクを取り出しました。

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これねw

マイケルはさっそくメイソンに言います。

“Here, Mason , I want you to have this. You know who Darth Maul is? ”
「いいかい、メイソン。君にこれを持っててほしいな。ダース・モールが誰だか知っている?」


「うん、知ってるよ。でもそれはだめだよ。これはとっても高価なものだってわかってるから」

“No, it’s fine. Really. I insist that you take it. ”
「いいんだよ、気にしなくて。本当に。どうしても君に持っていってほしいんだ。」


メイソンはバーニーの顔を見ます。バーニー、微笑んでうんうんうなずく(いいよ、もらっちゃいなって感じw?)。メイソンはマイケルに向き直って言いました。
「わかったよ。でもひとつ条件をつけていい?」

“What’s that ?”
「なんだい?」


「あなたがサインをしてくれるなら」

マイケルは笑ってバーニーを見ながら、すこーし眉を上げてみせ、頷きながら

“He’s a smart one! ”
「賢い子だ!」
と言ってダース・モールマスクの内側にサインを書きました。

“To Mason, Your Friend, Michael Jackson.”

えへえへって笑うマイケルの声が聞こえてきそうでしょう?
あー、かわいいやりとり!!んも、めちゃめちゃテンションあがってきた♪by明日はピアノの発表会だけどBEAT IT!

マイケルはもっとメイソンにおもちゃをあげたかったのに、かしこのメイソンはMJサイン入りダース・モールマスクで完全に満足してしまってたので、マイケル、必死に彼を説得してなんとか2、3個もらってもらったらしいですw
でもさすがKing、親子が遊んでいる間にバーニーの車の後部座席に沢山のおもちゃやお土産の袋をしっかり置いておくことをスタッフに命じることを忘れていませんでしたとさ^^

当時9歳だった彼は次の日、まだ子供だからでしょう、マイケルのネバーランドへ行ったことを黙っていられなくて、お友達に話すのですがクラスのみんなに「あー、はいはいよかったねー」的にあしらわれ、誰ひとりその信じられないほどのすごい出来事を信じてくれませんでした。
以後、彼はマイケルとの素晴らしい時間を誰にも話さないと決めたのです。

あの哀しい日から数日後、17歳になったメイソンはマイケルのために歌を作り、YoutubeにUPしたそうです。
彼の人生で、とびきり最高なマイケルとの5年間の想いを込めた歌でした。
映像の最期にこんな言葉を残して。

"I'll see you in heaven, Applehead"


号泣。

この本にはマイケルへの温かい思いやりやぬくもりが本当につまっていました。
なので、今後もこの本からちょろちょろとご紹介できたら、と思います。
てか、しますw

でね。

実はここからが本題って言ったら・・怒る?ww

えへへ、続きまーす^^

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続くんかい・・苦笑w

マイケルの言葉を知りたくて その1

ここのところまた、反論もできない彼に対しての冒涜が、モラルも品位も全くないメディアによって行われて、TwitterやFBで相手のメンションに「彼を侮辱するのはやめていただきたい」的メッセージを書きながら、心底このようなことが普通におこるアメリカのタブロイドの姿勢に失望しました。
これからは裁判の証言も始まりますし。

また彼の名前がゴシップ誌によくないイメージで載るのかな・・

さらに今回は当事者にPPBが入っているので、それこそ外野(わたし)は静観するしかない。
ただ、これ以上マイケルの尊厳が傷つくことないように、とそれだけ祈ります。


こんな時はマイケルの言葉が聞きたくなりますね。
見るんでもいいです。
歌やダンスももちろんいいのだけれど、マイケルが発した言葉の方が、こんな時には特に。

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彼自身の言葉に飢えていたわたし。

過去記事でNYの日本レストランのオーナーの方のマイケルの思い出話のことを書いて、その時のわたしの食いつきポイントはタイトルにあった(「お寿司大好きだったマイケル・ジャクソン」)「お寿司」ではなくて、彼が歌った「さくらさくら」まっしぐらで、すっかり寿司は放置して桜のお話になったのですが、今頃まっとうに「寿司」に目がいき、よくある外国の人が食べるカリフォルニアロール、とかでなくて、「トロとサーモンと鉄火」という至極まっとうな注文にむらむらしてきてw

マイケルお寿司好きだったのか~(ってだからお寿司大好きだったって言ってるじゃん!w)
それもなんちゃって寿司じゃないお寿司~、と急にお寿司とマイケルのつながりが気になりだしまして。
それからSushi関連でなんか面白い話ないかな~と調べるうちに、出くわしたWord。

「Susi at Michael's」

マイケルんちで寿司
マイケルんち=ネバーランド、そこで寿司・・
なにそれなにそれ!!!\(^o^)/

で、行きついたのが1冊の本。

Private Conversations in Neverland with Michael Jackson

2001年10月~2005年6月までマイケルの主治医だったWilliam Barney Van Valin医学博士が書いたもので、医師としてでなく友人となったマイケルの思い出を綴っているもの。(日本未発売、つまり洋書(/_;))
2011年の初版は自費出版だったようで表紙もカラー写真ではなく、モノクロのイラストでした。(写真は権利が難しいからね・・MJ関係って)
売上は(全てかどうかは未確認ですが)LAのNPO(Children of the Night 児童買春防止活動の団体)へ寄付されます。詳細はこちらへ。

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それにしても著者のお名前・・William Barney Van Valin・・?
うーん、どっかで・・

このオババは日常の大切なことは忘れても、MJ関連の事はうすらとんかちなりに結構覚えているので、この名前にどうしても見覚えがありました。
調べるとやっぱり・・

マーレー裁判時に、マイケルに処方箋を出した医者が9名ほどリストに上り、当時のタブロイドはマイケルの処方薬中毒に協力した医者たち、みたいに報道していました。
そのリストにはマイケルと懇意だったアーノルド・クライン医師(でもなー・・この人マイケルがいなくなってから印象悪い事ばっかしてたからな~><)、フランク・カシオの著書で出てくる再生医療のエキスパートであるファーシュキアン医師(Dr. Alimorad "Alex" Farschchian)、2003年にマイケルがルーパス患者への貢献者に与えられるMedical Visionary Awardメディカル・ヴィジョナリー・アワードを授与した、アラン・メッツガー博士(Dr. Allan Metzger)等々、もちろんマーレーも。
その中にこのバーニー医師(彼は甲状腺疾患が専門の内科医)の名前もあったので見覚えがあったのでした。


わたしの性格上、「あ、そうなんだー」で終らすことがたいがいできないので、当然当時の記事はもとより、関連情報、背後関係、調べなくてもいいかもしれないと思う事までお勉強。

わたしね
第1次MJファンの頃って本当に無知だったから。
なんも知らなかったから。
それを後悔してるから、今は知ることも大事だと思っていて。

だいたいこういうことって、よりセンセーショナルで、よりネガティブな部分のみクローズアップされがちだけれど、実際流れる情報の中にはたまーに小さいながらも事実もあって、でもその事実も他に声高に報じられるゴミ情報にまぎれたりかき消されたりしてしまう。

わたしはその小さな事実が、ぱっと見、ネガティブな扱いをされそうに見えても、その奥に、「これのどこがおかしいというのでせうか?」という、普通にまともなことであるという結論に至ったことがこれまで何度もあるので、「まずは知る」→「多方面から自分のできる範囲で情報を集めて分析する」→「①多方面から見れるほど情報が集まらなくて途中で挫折したり、結局のところ結論が出ないことに関しては、一旦忘れてしばらく放置」or「②納得する」というのがいつものやり方です。
なんか偉そうですが、そういう性分なのですね。

で、②納得できた事柄で、その中でも特にわたしの中のステキマイケルセンサーが著しく反応したことをここに書くわけです。(書きたくても筆力の問題で書けない事は多しw)


この本の著者の事を調べた段階ではまだ結論がでなかった。
ので、ブログで書く気もさらさらナッシン。

でも結論が出ないということは、そりゃそうだわ、だってこの本を読んでないんだもんという思考回路が働いてしまってw
それにどうしても「Susi at Michael's」が気になる。
軽すぎるといわれようがミーハーと言われようが、気になるものは気になる。

なので悩んでしまったの。そーねー10分ぐらいw

本は最初の何ページかは閲覧可能だったので、まずはとにかく読んでみましょうと思い。(ふふふ、カッコよく「とにかく読んでみましょう」なんてよく書いたなw 読んだところですぐにわかんないくせに)

でもまぁ、必死のパッチでどうにかわかったことは、だいたいこんな感じでした↓


マイケルがバーニー医師のところを初めて訪れた日のいでたちが、すでにウケますw
一応医者を訪ねるわけなのに、本当にKingの「普段はどーでもいーんだよ~~ん♪」ぶりにほのぼのするっていうか。
そのいでたちは、白いVネックTシャツに、左の胸ポケットに金のエンブレムのついた青いブレザーを着て、白いソックスと黒いローファー、ボトムは栗色のシルクのパジャマ、(出たよパジャマーw)もちろん傘持参。

ほらぁ、彼の好きなようにさせたら色も素材もコーディネートも、何もかもKING級!\(^o^)/
いわゆるパジャマのズボンとステキなジャケットの合わせ技ってやつですね!

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そのとんがりばっかり着ないで、明日は私の着てる赤のジャケットを着て、Thrillerの3Dセグメント撮りに臨んでね、マイケル!
あ、ハイわかってます


そう思うと、急にプレタ着て小奇麗になったのは、どう考えてもTIIプロモートの関係上、あの怖いスタイリストの入れ知恵アドバイスに沿っただけだとやはり思える・・よかった^^

とにかくその日のうちに彼らはやけに打ち解けあって(お互いのアンティーク趣味の話で盛り上がって)マイケルはバーニーをネバーランドの夕食に招待します。
9歳になるメイソンという息子を連れて行ってもいいかなと尋ねたバーニーに、マイケルは「もちろん!」と言ってから、テーブルの上にあったPeopleという雑誌を指さして言いました。

You shouldn’t buy that. It’s a terrible magazine
こんなの買わないほうがいいよ、ひどい雑誌さ


バーニーは笑って「OK、そうするよ」と言いました。(P3~P5)


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あら・・もっと読みたいかも・・と先を読みますと。

バーニーと息子のメイソンがネバーランドの中に入ってもマイケルの母屋へ行くまで遠い遠いw
その辺の説明をしてくれていて、そのあたりも興味深くて楽しかったです(そこを書けw)
が、実際にマイケルがバーニー親子を出迎えてくれた時の描写の中に、わたしのハートをまたもやわし掴みにするWordが!

当時プリンスかぞえの4歳、パリス満3歳。(本書では3歳と2歳となっていますが2001年10月ということで)
プリンスは4歳にしてすでに紳士的に、笑顔で自己紹介をきちんとして「おあいできてうれしいです」と握手までしちゃうかしこぶり。
それに対してパリスはと言えば、マイケルの左足にしがみついて前に出ることもできず、マイケルは何とかしてパリスに「こんにちは」を言わせようとするのですが、人見知りを大爆発させるパリスはパパのパジャマの足にしがみついて隠れるだけ。(やっぱりパジャマのままだよーw)

This made Michael laugh a little and he said
“Paris , you applehead . ”
これにはマイケルも少し笑ってしまって、そしてパリスに言いました。
「パリスはAppleheadだねぇ」

出たよ、Applehead!

このあとバーニーはこんな風に書いていました。

”結局この言葉をそれからたびたび聞くことになるのですが、マイケルはちょっとおバカな事をした人を誰でもAppleheadと呼びました。実はそれは彼特有の親愛を示す呼び名だったのです。
マイケルは私の息子のメイソンにも何度かその呼び名で呼んでくれました。”(P9)

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ミニカーを持つお手手には

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僕だってAppleheadさ!\(^o^)/


やっぱり・・読もう・・

読もう!絶対読もう!とそこで決断。
ああ、あんなに悩んだはずなのに、わたしのためらいはいずこへ。

もちろん「Susi at Michael's」も「Applehead」も魅力的ではありましたが、MJの歴史の中でどうしてもネガティブに言われやすくて、情報も少ない2001年~2005年の間に、バーニー医師と一緒に居た彼がどんな顔を見せていたのかが、やっぱりどうしても知りたかったのでした。
色々な背景も踏まえたうえで、それでも。


実際の感想としては、わたしにとっては大正解。

バーニー医師は、マイケルの医学問題に関しては守秘義務を守って一切書いていません。
彼は医者という立場でマイケルと知り合ったけれど、あくまでこの本は自分がネバーランド、そしてバーニー自身の家で彼と交わされた信じられないほどの素晴らしい5年にわたる会話の思い出を通して、友人マイケルのひととなりを読者と共有することをゴールと思って書いたのだと記しています。

ここには、マイケルが「第2の家族」と呼んだカシオ家同様、バーニー家(彼の妻クリス、息子のメイソン、娘のビアンカ)の人々とマイケルの家族との、温かくて思いやりあふれる交流が綴られていました。

どの章にも沢山のマイケルとバーニーとの会話が綴られています。
もちろんバーニーの思い出と記憶の中のマイケルの言葉ですから、完全に彼が言った通りではないと思います。
それでもこの本の中で読むことができる、この時期に彼が語ったとされる言葉の数々は、彼の信念や信条がささいな日常のシーンの中でも垣間見ることができ、常にぶれずに変わらずに貫かれていることをわたしに再認識させてくれるに十分値するものでした。
そしてなにより口先だけではない本当の愛をしっかりと心に抱いた彼、優しさを忘れない彼、気遣いあふれる彼、天然で笑うのも笑わすことも大好きなおちゃめさん、絶対に忘れなかった子供の心、素晴らしいお父さんぶり、そんな沢山の彼に出会えました。

バーニー医師がマイケルに処方箋を出したのは事実だけれど、そのことで「マイケルを本当に思うならもっと違う方法で云々かんぬん」と責めたりすべてを判断することをわたしはよしとしませんでした。
この著者が描き出すマイケルから、わたしが大好きなマイケルの愛すべき人柄と尊敬すべき信念を確かに感じることができたから。

それは書き手が持つマイケルへの愛情がそうさせたのだと。


という訳でわたしは自分の中で納得して、例のセンサーはもう、ビービービービー反応してましたから、なので今ここでつらつらと書いているという訳です。

ここまで書いたのですから、せっかくなのでバーニーの本の中に意外に出てくるお寿司エピソードを、がっつり書きたいところですが、それには英語能力が著しく不足してますし、一応書籍なのですべて転載はさすがにできませんので、かいつまんでご紹介しますね(ええ、いいわけですw)

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バーニーはしょっちゅうマイケルに呼び出されてランチ(ネバーランド)を訪れたようです。
ふたりは夜遅くまでなんだかんだと遊び(すみませんね適当でw)気が付くともう夜中の3時を回っていて、お腹がすいたと感じたバーニーは、マイケルに笑いながら「お寿司食べない?」と聞くと、マイケルも「OK、行こう!」とキッチンへ直行します。
マイケルんちの冷蔵庫はバカでかく、おそらくコンビニなんかにあるショーケースみたいなものかな?ガラスのドアが5つある冷蔵庫ったら、そうでしょ?w
その中に、こんな時間でもいつでもなにかしら食べ物が、宵っ張りのマイケルのために用意されていて、お寿司もトレイに並べられているわけで。
でもお寿司の入ってるトレイは、棚に専用の場所が設けられてるわけではなく、なぜか冷蔵庫にある、ありとあらゆる種類の飲み物の中の、ソーダ缶の上にいつも置かれていたそうです。
マイケルはリンゴジュースを、バーニーはペリエを持って、お寿司を食べ始めた時。

”Michael picked up an ebi (shrimp sushi) and asked, “Barney, is it true that shrimp have a little line of…” he paused looking for the word, then said, doo doo across their backs?” He ran his finger along the shrimp.

マイケルは海老をつまみ上げて私に尋ねました。
「バーニー、これって本当のことなのかな・・海老のこのラインが・・」
彼は言葉を探すように一瞬ためらったあと、海老の背ワタのラインを指でなぞってこう言いました。
「この背中のラインって、海老のうんちなの?」


バーニーは大爆笑したあと、「本当だよマイケル、でも君のシェフは握る前にきちんと下処理をしてるから安心していいよ」と言ったらしいですww (P51)

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出たよ、DooDoo!!!

ああ、買ってよかったこの本!\(^o^)/(そこ?)

こんな風にマイケルがお寿司好きでなかったら、彼がいつでも食べられるようにって、お寿司をセットしているわけないですものね。
いつも海老を食べるのビビッていたのかKing!!かわいすぎるぞもう!(´∀`)


この章には、マイケルの運転が一体どのようなものであったか、なんて記述もあって。
ご多分に漏れず、バーニーもマイケルは「いいドライバーとは言えない」と評していてw
マイケルは、顎がハンドルの上に乗るぐらいにシートを一番前にセットして、ハンドルを午前10時と午後2時の位置できっちり握り(教習所で教えられますよねw)、ひじょーにゆっくりと走らせるのだけど、絶えずブレーキを踏んじゃ加速、すぐブレーキといった感じで、まっすぐの道でもよろよろ曲がっちゃ持ち直し、の連続で、一番恐ろしいのは運転中も会話をしたがって、ついついバーニーの方を向いて話す・・とかw

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右よし、左よし!


こわーいww
でもかわいいーww
乗りたくないー、けど乗りたいーw
マイケルはSpeed Demonのイメージや、ランチの中のゴーカートでやたらめったらスピード出すって聞いていたから、結構スピード狂だと思っていたけれど、さすがにカートじゃなくて実際の運転にはブレーキしょっちゅう踏むって慎重すぎるじゃんねw
顎がハンドルに乗りそうなぐらい前に出て・・正しいハンドルの握り方をして・・ちょっと走ってすぐブレーキ・・ウケるし萌える~^^


もう一つお寿司エピソードがあるのですが、ここでマイケルは間違いなくお寿司のツウぶりを発揮します。
また長い記事になりそうw

なので

まさかの続く!\(^o^)/

MichaelとJeffreyのお話

タイトル見てジェフリーはもういい、とか言わないでねw
Study the greats and Become greaterシリーズの中では、もうさすがに書ききれなかったのだけど、ジェフリーがマイケルについて語ってくれた言葉を、どうしても書きたいの(書けば?ってね、そうねそうよねくすん)


DDD(2010年10月号)誌のインタビューでおそらく1995~1997年頃の話だと思います。
なぜなら途中でディズニーアニメのトイ・ストーリーの話が出てくるのですが、アメリカの公開が95年で、彼らの会話の内容から察するに、公開から少し経っているような感じだったので。
ジェフリーはMJJプロダクションのレコードレーベル(甥っ子3Tがこのレーベルでデビューしていますよね)のコンサルタントになった95年から97年頃まで、Ghostsに関わったりマイケルと一緒にブラジル(TDCAU撮影?て、誰に聞いてるんだYOw)、ドイツ、イギリス(これはHIStory tour?だから誰に聞いてるんだっつーw)に同行したと語っています。


DDD誌 2010年10月号インタビューより一部抜粋 --------------------

マイケルの住んでいたネバーランド牧場に招待され、10日ほど滞在していた日々は私にとって生涯忘れることのできない大切な思い出です。
ある日、マイケルが部屋に私を呼んで、「Jeffrey, Have you already watched Toy Story? ジェフリー、「トイ・ストーリー」はもう観た?」って聞くのです。
実はすでに観ていたのですが、私は嘘をつきました。
「ううん、まだなんだ」「Ok, then let's go to see it. It's on now! じゃあ、映画館で今やっているから観に行こうよ!」
ネバーランドには大きな映画館もありましたからね。
私たちは敷地の中をゴルフカートで移動していました。
私が選んだのは「バットマン」のロゴが描かれたカートです。
マイケルのカートにはカバーがかけられていました。

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こんなんかな~^^


ある夜、マイケルが「Let's walk. no golf carts. 今夜はゴルフカートをやめて2人で歩かない?」と言いました。
月の美しい夜でした。
それで2人で散歩をしたのです。
プールわきを通り、ゲームセンターも通り過ぎた時、芝生の上にシカが歩いているのを見つけました。
「ヘイ、マイケル!シカがいるよ!」「Yeah, they always come out and play. 彼らはしょっちゅう遊びにくるんだ」って。
その夜は本当に長い時間、いろいろな事、子供時代のことや結婚観、人生について話しました。

彼と一緒に撮った写真や映像がないのは残念ですが、彼との思い出はすべて私の心に残っています。
私は彼といる時、カメラやビデオを取り出したことはありません。
何故なら、いつでも彼にリラックスしてもらいたかったからです。
誰かが彼の前でカメラを出したりすると、彼は1人の人間ではなく「マイケル・ジャクソン」という名前のエンターテイナーにならなければなりませんから。

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私はマイケルをスターとして特別に扱ったりはしませんでした。
彼と一緒に働いていた時は彼が私のボスになるわけですが、その時でさえも一対一の人間同士の付き合い方です。
私は彼に対しても他のダンスブラザー達とまったく同じように接していたのです。
マイケル自身も私のそのような接し方に感謝してくれているようでした。
マイケルとわたしの関係が長く続いたのもこのような理由があるからかもしれません。

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ジェフリーが「マイケルと一緒に居る時に写真を撮ったりはしなかった」と話す通り、本当に彼ら二人の写真は少ない、というかほとんどない。
BADの12インチシングルのジャケット写真が唯一公式な雰囲気の写真です。

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DDD誌に載っていたおそらくマイケルのネバーランドのダンススタジオで、ふたりおそろいのフェドラをかぶって踊っている写真は、ネット上では見つけることができませんでした。

以前、レジェンドさんのサイトで読ませていただいた、95年にネバーランドで催された「第2回 世界子供会議」にラッキーなことに参加できたファンの親子さんのレポートを思い出しました。

初めはお子さんより興奮して嬉しさを抑えきれないママ(わかるw)でしたが、徐々にネバーランドが存在する本当の目的を知るうちに考え方が変わってきます。
子供らしく楽しむことが様々な事情でできない子供たちや、恵まれない弱い立場にいる人たちのためを一番に考えて設計され、彼らが心底リラックスして過ごせるよう考え抜かれた施設やルール、そして彼らの楽しみをサポートしてくれるプロフェッショナルな教育を受けた一流スタッフたち・・それらに触れているうちに、ママさんは、「大好きなマイケルに一目会いたい」とか「ネバーランドを訪れた記念になるものを何でもいいから持ち帰りたい」といった、ファンであればどうしても感じてしまう欲望よりも、マイケルの心や高い志を理解したい気持ちの方が大きくなっていきます。

そしてお子さんに教えられるママさん。

「マイケルはね、スターマイケル・ジャクソンじゃなくて人間マイケル・ジャクソンとして接して欲しいんだって。
だからね、キャーとかサインしてとか 大きな声を出しちゃいけないの。
走り寄ったりプレゼントを渡しちゃあダメなんだよ。 わかった? お母さん。」
「ハイ」
「日本に帰って友達や周りの人に話す時、マイケルの顔がああで 声がこうでという事は二の次なんだよ。
マイケルってこんな人なんだよって、彼の優しさ・心の広さ・人間的に素晴らしいって事を伝えるのが、私達の使命だからね。」←いい子!この子いい子ー!
Source:Legend Of MOONWALK (会員体験レポート【 第2回 世界子供会議に参加して 】)

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マイケルにとって当時のネバーランドは、多くの人に門戸を広げた癒しのテーマパークでもありましたけれど、彼の願いや希望、想いのたけをすべて体現させた場所でもあり、くつろげる自宅でもありましたから・・

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ここで普通にすれ違われることが、彼にとってはなによりの安らぎで
どこを歩いていようが、何をしてようが、誰にも注目されず指も指されず、カメラを向けられることもない、そんな普通の人なら極めて普通の状態が、彼にも許された唯一の場所

だ、だめだ泣けてくる(/_;)


ま、そういうことで、(すばやく切り替え!w)ジェフリーはマイケルにきちんと礼儀を尽くして接していたわけですね。
マイケルが類いまれない才能を持ったまばゆい存在であることを承知の上で、でもお互い一対一の人間同士の付き合い方をする。
普通に考えれば当たり前なのでしょうけれど・・。



実際のところ、その後ジェフリーは日本へ拠点を移したせいもあり、マイケルとゆっくり会うことはなくなり、たまに電話で連絡をとる関係だったそうです。
2006年にアイルランドにいたマイケルに、ロンドンから電話をかけて近況を報告しあったのが、ゆっくり話した最後だったそう。

ですが、ジェフリーは2008年にイギリスの雑誌のインタビューで、マイケルの擁護と同時にメディア批判をしています。
イギリスのタブロイド(SUN)に端を発し、メディア全体で使われるようになってしまったあの失礼な呼び名で彼が呼ばれることと、罪もない彼に対するいまだ尾を引いていた冷淡な扱われ方についてです。

イギリスのメディアはいまだにその呼び名を使うことがあって、そんな時は本当に心から落胆させられます。
彼らの言い分は「親しみを込めて」なんだそうですが、勝手な言い訳にしか聞こえませんし、当然のことながらマイケルは決してそれを容認せず生涯嫌っていた呼び名です。


■20/20 Interview with Barbara Walters(1997)

You should not say, “He’s ‘Jacko’.”
I’m not a ‘Jacko’. I’m Jackson.

あなた方メディアは「彼はジャッコだ」などと言うべきではありません。
僕はジャッコではないのです。僕はジャクソンです。

‘Wacko Jacko’… where’d that come from? Some English tabloid.
I have a heart and I have feelings.
I feel that when you do that to me. It’s not nice.
Don’t do it. I’m not a ‘wacko’!

Wacko Jacko・・なんてどこからきたのでしょう?イギリスのタブロイド雑誌ですね。
僕には心もあるし感情だって持っています。
そんなことを言われたら思いますよ。とても不愉快だって。
その呼び名はやめてください。僕は「変人」なんかじゃないんです。


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■TV-Guide "The man in the mirror" Interview (2001)

Q:世間では‘Wacko Jacko’と呼ばれていますね

But that’s not nice. They do that because they’re jealous.
I haven’t done anything.
I go to hospitals and orphanages. And we take huge bags of toys. I spend thousands of dollars.
What’s wacko about that?

どうかと思います。彼らは嫉妬しているからそんな風に言うのでしょう。
僕は(そんな風に言われることなど)何もしていません。
病院や孤児院へ行くんです。おもちゃでいっぱいの大きな袋を持ってね。数千ドル使って。
そのことがどう変わっているというのでしょう?




■ジェフリー 2008年5月10日インタビューより一部抜粋 (source:The VOICE)

ジェフリー・ダニエル(この人は今週、ロンドンでパフォーミングした)は、「ジャクソンがWacko・Jackoのレッテルを貼られるようなことには全く値しないし、児童虐待者のように描かれるべきではない」とThe Voiceに語りました。
ジャクソンは、過去に、2つの児童性的虐待主張および裁判に直面しました。
彼はすべての容疑に対し無罪と宣告されました。
ダニエルは、多発性硬化症、癌および他の末期疾患で死ぬ恵まれない子どものために、ジャクソンがした沢山の親切な行いを見てきたと言いました。

「私はNeverlandに滞在して、そこにあったものを見た。
そこに滞在していた子供たちにも会っているんだ。
(メディアが云うようなことは)全く納得できない。意味不明だ。
私が知っている限り、彼はその種の人間なんかじゃない

マイケルは何も言わないが、私は、彼がどんなことをしてきたかを見てきたんだ。
彼の最大の罪は彼の博愛主義と謙虚さだ。それが彼にとって裏目に出てしまった。
あいつらは彼の後にまとわりついていた奴らなんだ。

彼はもっと早くにガードを固くするべきだったのにそうしなかった・・オープンで寛大な人間であるがゆえにこんなことに・・本当に気の毒に思うよ。

有罪判決を下されて刑務所にいるリハビリ中の人々に対しては、メディアがとても寛容というのはおかしくないか?
なのに無罪判決をうけた人には、こんなふうにネガティブに描くなんてあまりにも不当だと思う。


<中略>

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ダニエルは、人々がマイケル・ジャクソンをムーンウォークの生みの親だとして賞賛することに対して、自分が無視されただなんて思っていないと言いました。
問題についてのインターネット討論に関して、ダニエルは次のように言いました。

「それはファン同士の問題だよ。
マイケル・ジャクソンと僕には、お互いへの愛情と尊敬しか持っていない。
マイケルは僕のダンスブラザーズのひとりなんだ
から、マイケルのダンスの功績によって、僕がないがしろにされたなんて一切感じた事ないよ。」

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・・泣ける(/_;)


1955年8月24日生まれ。
マイケルと3年と5日違い。

お姉さんしかいないジェフリーは、マイケルのことを時に弟のように思っていたそうです。

生まれた時にすでに両親は離婚していたため、お父さんを知らずに育ったジェフリー。
お母さんは教会でピアノを弾く仕事で一生懸命一家を養います。
貧しかったけれど、歌とダンスが得意だった母と姉の影響で、彼も教会の聖歌隊で歌い、独学でダンスを始めるようになるのです。

母が元気な間は、父の存在はほとんど頭になかったジェフリーでしたが、2005年に最愛のお母さんを亡くしてしばらくたった頃、「自分はいったい何者なんだろう」と、自分の中に流れる「ダニエル」というルーツについて考えるようになったといいます。

その後、生まれてから一度も逢ったことのなかった父に逢い、はじめて自分のルーツ、自分の血脈の歴史を知ります。


彼ははるかはるか遠い昔に、自分の祖先が奴隷船に詰め込まれて、アフリカから海を渡って連れてこられた見知らぬ土地で、歯を食いしばり苦難と逆境と失意の中で闘い、いつか自分たちの子孫が自分たちのように苦しまなくてもいい時代が来ることを夢見て祈り続けて耐え忍んだ、その長い歴史に思いを馳せた時、いつの日かアフリカに、祖先たちが帰りたくても二度と帰ることのかなわなかった祖国に根差し、アフリカの芸能に自分が役立てるように尽力したいと願っていたそうです。

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アメリカンアイドルならぬナイジェリアンアイドルの審査員してまーす^^

現在彼が熱心に行っているナイジェリアのエンタメ界を盛り上げる活動。
直接のきっかけは別にありますが、この父親との邂逅で自らのリアルなルーツを知ったことも、そこにつながる大きな要因の一つだったのではないかと思います。

そして、同時にその時、父親の家系の中で、にわかに信じられないほどの驚くべき話を聞くのです。

ジェフリーは「ダニエル」という一族の歴史を、自分の祖父や祖母らのことを、父親が母とどのように巡り合ったか、など色々な家族の歴史を父親から教えられます。

そこで知ることになる事実。

自分のダニエル家とジャクソン家という一族の繋がりでした。
父が話してくれた手がかりは、ジェフリー本人にしてもあまりに情報不足で、でも一度マイケルに確かめずにはいられなかったそうです。

Michael , do you have any grandmother named Crystal Jackson ?
マイケル、君のおばあさんに「クリスタル・ジャクソン」という名前の人はいるかい?

How did you know?
どうしてわかったの?



ジェフリーは父親から家系図を見せられて確信したそうです。
自分とマイケルが親戚だということを。
ダンスを教えたり、仕事を一緒にしたり、という以上に深いつながりが自分たちにはあったということを。

そんなこと何も知らずに、何年もの間マイケルと一緒に過ごしていたのだと。

結局マイケルとこの話をしっかり話し合ったことはなかったそうですが、ジャメイン、マーロン、リビーとは話をしたそうです。

Source:Jeffrey Daniel…The dance machine’s hooked on Nigeria

マイケルの父であるジョーのお父さんが Samuel サミュエル。
お母さん、つまりマイケルの祖母がクリスタル Crystal Lee King(Jackson)。(クリスタル・キングっていっても「大都会」や「北斗の拳」は今関係ないからw)

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Samuel Jackson and Crystal Lee King

ジョーの著書(息子マイケル・ジャクソンへ)によると、結成したばかりのジャクソン5でボンゴを必死に叩く幼いマイケルの歌の才能をいち早く認め、「マイケルに歌わせてみなさい」とジョーに勧めたのが、このクリスタルおばあちゃんだったとか。

サミュエルの祖父は先住民族チョクトー族の出身でした。
奴隷階級の美しい娘と恋におちて子供をもうけます。
その子供がマイケルの曽祖父となるのですが、ネイティブ・アメリカンとアフリカからの血がここで混ざるわけですね。

クリスタルの場合も多人種が融合された血筋です。
彼女の祖母にあたる女性が、Mattie Daniel マッティ・ダニエル。
彼女の母は大きな農場主の娘で白人でしたが、当時絶対的なタブーであった奴隷の立場である黒人男性の子供を身ごもり、そうして生まれたのがマッティでした。
烈火のごとく怒った農場主は、マッティを孫とは認めず別の黒人家庭へ養子に出してしまいます。

奴隷の子供は奴隷。
それが当たり前の時代に、彼女は苦難を強いられながら2度の結婚を通じて17人の子供を授かります。
そのうちの一人がGertrude ガートルード(マイケルの曾祖母)。
彼女も子供を13人もうけます。そのひとりがクリスタルでした。

ちなみにマイケルに関して言えば、Joe(父方)のルーツだけでも、アフリカはもとよりチョクトーインディアンの血も白人の血も含まれる、本当に多様な人種のDNAの上に成り立ったブラック・アメリカンだというわけですね。
彼のこの多人種の血筋からあらためてわかることがたくさんあって、このままそのお話に行きたい欲望もあるにはあるのですが、それだとまたもやぐだぐだになることが目に見えていますので(笑)、また別の機会に書きたいと思います。

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ジェフリーに戻ると。

ダニエルと言う姓からわかるように、マイケルがボーカルをとるきっかけを作ってくれたクリスタルおばあちゃんの祖母にあたる、このマッティ・ダニエルという女性からクリスタルにつながる世代・・
クリスタルの名前がキーワードになったことから、彼女の12人の兄弟から派生した家系がジェフリーのダニエル家だったのかもしれないですね。
いやー・・ジェフリーも驚いたかもしれませんが、わたしも驚きましたよ(関係ないですけどw)

ジェフリーがマイケルを弟のように感じたのは、あながち自分に男兄弟がいないから、というだけではなく、なんていうか血のつながりを無意識に感じたからかな。

この事を知って、やっぱりどうしてもジェフリーのことは書いておきたいと強く思ったんですよね。


マイケルに関わり、彼を大切に思っていた人は多いと思うけれど、ジェフリーも間違いなくマイケルとの関わりを自分の人生の中で大切に思っているひとりだと思います。


ジェフリーは自身のホームページに、「Thank you 感謝をささげる」として、家族やシャラマーのメンバーをはじめ、色々な人を挙げています。
Special Peopleとして、自分のダンスに多大な影響を与えたロッキングの父、偉大なるロッカー、ドン・キャンベルや触発されて刺激を受けたであろう、ポッピングの創始者、ポッパーのブガルー・サム・・
ジャネット、ランディ、マーロン、ラトーヤ、Babyfaceやポール・マッカートニー、寛斎さんやコシノミチコさんの名前もあります。
北海道に住んでいた時ラジオのDJもしていたようで、ちゃんと札幌のFM局の名前までありました^^
もちろんマイケルもいます。

でもまた涙腺がじんわりしたのは、マイケルがもうひとつのカテゴリー内にいるのを見たから。

それは My Dance Brothers

僕のダンスブラザー


冗談とダンスの好きなどこにでもいる普通のブラザーとして付き合った長い年月。

同じ遺伝子を分け合い、同じルーツにつながる弟のような存在。


Thank you ページに、ジェフリーのマイケルへの思いが込められたメッセージも綴られていました。

訳しているうちに泣けて仕方なかった。

ジェフリーはマイケルが「MJ」を守らねばならないこともわかっていたし
でも普段はただのマイケルでいたいのもわかっていたし

彼らの結びつきの中には、ムーンウォークを誰が始めたのだの、誰に教わっただの、クレジットする、しないの是非などは全く問題ではなくて、お互いに「いい奴」で「Good Dance Brother」で、それで十分だったことが
少なくともジェフリーはそうだったことがわかります。

BAD25ドキュメンタリーでジェフリーを見て、彼のいろいろを思い出して、あらためて調べてよかったと思ってます。
こうして紹介できたこともよかったと思います。

必要以上に飾り立てることなく、純朴に・・ぽつぽつと語っているような、ジェフリーのマイケルへの想いを転載させていただいて、今日はお別れです。

いつも長くてすみません。

それでは。



From the official website of Jeffrey Daniel (Shalamar)

Dear friends

親愛なる友よ
君への感謝と、君を失って悲嘆にくれる涙を流しながら、どうこのメッセージを書けばいいのか・・

感謝からこみあげる涙、それはマイケル・ジョセフ・ジャクソンが僕らに長年にわたって与えてくれた・・彼の天使のように美しい歌声と、たぐいまれないパフォーマンスに対する涙です。

世界は真に特別な魂を失ってしまいました。
もうこの世界には、マイケル・ジャクソンのような魂はどこにもいないのです。

このショックと悲しみを乗り越える方法として、君はすでにもう、はるか高みに上り、天上の父なる神に「息子よ、よくやった」と迎え入れられているのだと思うことにしているよ。

僕が君のキャリアの一端を担う一員になれたことを誇りに思います。
そして君が僕のダンスブラザーでいてくれた事を、本当に光栄に思っています。

優しく思いやりのある人間である君と一緒に働く幸運に恵まれた、沢山のミュージシャン、ダンサー、ディレクター、シンガーたちと同じように、僕を信頼して作品に参加させてくれた君に、僕はどんなに感謝しても足りないぐらいです。

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Michael Jackson and Jeffrey Daniel at their private lesson (Source: DDD Magazine Oct 2010)

どうか彼の歌に耳を傾けて、この世界や自分の人生に、彼が及ぼした影響をじっくりと考えてみてください。
彼は、彼の芸術と愛で僕たちみんなを癒やそうとすることにとても大きな役割を果たしたのです。
マイケルを育て、彼を世界と分かち合った、その最愛の彼を失って嘆き悲しむ彼の両親や家族が強くいられるよう祈りましょう。

このことは僕の人生の中でも最悪なことのひとつだけれど、神の慈悲で何とか心を強く持とうとしています。
僕らの愛するマイケル・ジョセフ・ジャクソンの美しい魂に神のご加護を。
どうか彼のために、彼の家族、ことさら彼の愛する子供たちのために祈ってください。

Love, Jeffrey Daniel
愛を込めて ジェフリー・ダニエル


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Please listen to his songs and reflect on his influence on your life and this world.
どうか彼の歌に耳を傾けて、この世界や自分の人生に、彼が及ぼした影響をじっくりと考えてみてください



Study the greats & Become greater その6

マイケルとジェフリーの最初のダンスレッスンは、1980年から83年まで続きます。
その間、マイケルはThrillerを出し、モータウン25でムーンウォークを披露し、ある意味一区切りといったタイミングで、ジェフリー自身もシャラマーを脱退し、自分の世界を広げるためにイギリスへ移ったことで一旦このレッスンは終わります。

その後1986年にジェフリーがアメリカへ戻り、彼らの関係は再び繋がります。
Beat Itのバックダンサーにも参加していた(これは知らなかった!)ジェフリーを見込んで、マイケルが当時「シカゴナイツ」(実はSmooth Criminal)というプロジェクトの話をしてきて、「Are you interested in working with me on this project? 僕と一緒に仕事をすることに興味はある?」と聞かれたことが、正式なコレオグラファーとしてのオファーとなったのだそうです。

マイケルからBADのためのダンサーオーディションを頼まれたジェフリーは、仲間のキャスパーとともにNYへ飛び、2日間でダンサーを選び、すぐに撮影に入らなければならないというバタバタの日々を過ごすことになります。
その切羽詰まった振付風景はマイケルのプライベートホームムービーでもお馴染みでした^^

Michael Jackson Private Home Movies Part 4 へGO!
振付の模様は 4:31~4:47です。
二人のEOファン、もといジェフリーとキャスパー映ってます^^

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MJ: This is at rehearsal at the MC Palace(ヘルムズレイパレスホテル:現在はニューヨークパレスホテル), choreographing it
これはMCパレスでのリハーサル、振付してる んふふふふ!
(なにがおかしいw)

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BAD Michael: Once we get inside we go BAMBAMBAMBAMBAM! We gotta hold that a while
一度中に入ってから行こう、バンバンバンバン!で、しばらくそのまま。


MJ: We had two days to choreograph. I love that pressure.
振付けするのに2日しかなかった。僕はそんなプレッシャーは大好きだ


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BAD Michael: It’s gotta be more tense!
ここはもっと張りつめなきゃ!
 キャスパーうんうんうなずく^^


力みすぎて血管きれないか心配w

と、こんな感じで振付を一緒に考え、もう一人のコレオグラファーであるグレッグ・バージと現場で手直しをしながら作られたBADのダンスだったのですね。

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そーなんだよー!!うおー!

再びDDDインタビューより抜粋
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Q:撮影は楽しかったですか

それはもう、これまでに経験したことがないほど楽しい撮影でした。
とにかく撮影中は面白いことばかりでした。
マイケルとわたしはしょっちゅう、何かにつけて笑いあっていました。
誰かが転んだり、何かちょっとしたことがあるたびに、マイケルが「Did you see that? 今の見た?」っていう合図を私に送って、お互いに笑い合うんです。
でも私たち以外の人はどうして私たちが笑っているのか理解していません。
演技に集中してもらうため、マイケルは決して他のダンサーの前で冗談を言ったりしませんでしたから。
でも私たちだけは他のみんなに気づかれないように笑い合っていましたね。
マイケルが私のことをこういう風に(真似をしながら)見ているのがわかるのです。
彼とうっかり目を合わせると、お互いに吹き出してしまうので、目を合わせないように必死にこらえていました。

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付き合い始めの初々しいカップルが、自分たちだけの合図やサインでくすくす笑いあう・・みたいでいーなーいーなーいーなー\(^o^)/

1986年12月までBADの撮影をし、翌年2月にSmooth Criminalの撮影に入ります。
マイケルからずっと「シカゴナイツ」というプロジェクトだと信じ込まされていたジェフリーは、撮影中もSmooth Criminalだと知らずに「シカゴナイツ」の撮影だと思っていたそうです。
情報が漏れることを恐れたマイケルの、「敵をあざむくならまず味方から戦法」にまんまとはまったようですw

有名なアンチ・グラヴィティの動きもジェフリーのアイデアだったそう。
彼は1984年にポール・マッカートニーの映画(Give My regards to Broad Street)に出演していますが、その際映画の中であの傾く動きを取り入れています。

Silly Love Songs - PAUL McCARTNEY


映画の中、懐かしいポールのSilly love Songsにのせて、ジェフリーがアンチ・グラヴィティっぽい動きをするのは、3:41~3:59あたり。(最後らへんで妙につつつつーという感じのバックスライドもやってますw)

アンチ・グラヴィティの動き自体はチャップリンら無声映画時代からある動きだったようですが、ジェフリーはマイケルに「まだ誰もグループでこの動きをやったことはないから試してみようよ、何人かで集まってこの動きをやったら、きっと面白くなると思うよ!」と進言したそうです。
そのアイデアが取り入れられて、今となってはSmooth Criminalの代名詞ともなったアンチ・グラヴィティ。
さすがジェフリー、マイケル以外のダンサーの中では一番深く倒れていますw

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や、どーもどーもごぶさたしてます


SF撮影時はピアノ線を使っていたようですが、あとから実際にライブで行うための、あの靴の仕掛けは紛れもなく本当に誰もやったことがなかった、それこそマイケルの特許ものだったという訳です。


彼らの繋がりは、その後も続きます。
1995年にマイケルのMJJプロダクションのレコードレーベルが発足した際、ジェフリーはコンサルタントとして参加したそうです。
その流れもあり、GhostsのSFでも振付顧問としてクレジットされています。

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同じ顧問には、キャプテンEOでダンサーとして、振付にも参加した、元エレクトリックブガルーズのポッピン・タコことBruno Falconもいますね。
彼もマイケルのダンスに多大な貢献をした一人です。

興味深いのは、そのGhostsのエンドロールでダンサーとして多くの名前がクレジットされていますが、それとは一線を画すかのように一部のダンサーたちは別枠でクレジットされているということ。

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Poppersとしてはポッピングというスタイルを確立させたエレクトリック・ブガルーズのブガルー・サムとポッピン・ピートのソロモン兄弟ら。
Rockersとしては、ロッキングというスタイルの創始者であるドン・キャンベルら。

彼らもGhostsに参加していたのですね。
ユーコさんやトラヴィスでさえ探すのが面倒なのにむずかしいのに、誰がここに出ている、なんてもう絶対無理無理w

このシリーズ(その4)や過去にも何回も書いてることですが、マイケルのダンススタイルには、本当に数多くのダンサーたちの動きが取り入れられていますよね。
当時LAスタイルと呼ばれたポッピング、ロッキング等々の新しい動きをいち早く取り入れた、あるいは創りだしたダンスを愛するダンサーたち。
ジェフリー自身も、昔からある動きとはいえ、新しいスタイルとしてバックスライドを行っていたエレクトリック・ブガルーズにインスパイヤされたと認めていますし、多くのダンサーがそれぞれの動きに触発され、さらに磨きをかけ、切磋琢磨していた時代。

マイケルは元々自分のスタイルとして、アステアはじめとする彼の憧れのエンターテイナー達の踊りを自分の感性やセンスで創りあげた自分流のダンスに融合させていたわけですが、まさに1970年代の後半から新しいダンスの潮流を感じて、それらの達人たちを振付師やダンサーとして招いて一緒に踊ることで、さらに踊りに磨きをかけていったのだと思います。
ThrillerやキャプテンEOを経て、BAD、Smooth Criminal、そのほか数多くの曲を踊る過程の中に、関わってくれた新しいダンスの先人的役割を果たしたダンサーたち。

マイケルは自分のダンスが飛躍するための重要なファクターを、関わりの程度の差こそあれ先人的な彼らから得たことを、きちんと伝えたかったのかもしれません。
だからこそのDancer枠ではなく、彼らはポッピングの達人、ポッパーであり、ロッキングを確立したロッカーだとあえて。
マイケルはダンスに愛情と敬意をいつも持っていた、とタップのドーメシアも語っていました。
このクレジットが、マイケルの彼らへの感謝と敬意の気持ちの表れなのではないかなと感じました。
(たいした意味はなかったかもしれないし、単なる勘なんですが)

これもある意味、マイケルの Study the greats and Become greater を表しているように思えてしまいます。

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専門的な意見を書き込む掲示板で、キャプテンEOの頃はあきらかに後で踊るポッピン・タコたちエレクトリック・ブガルーズのメンバーよりポッピングの技術は劣るのに、数年後には専門的なダンサーに引けを取らないほどすごくなっている、という書き込みを見ました。

そこが高みの追及を決してやめない、彼らしいところではないかと。
研究して学んで、成長したい、そしてさらにはそれ以上の革新を成し遂げたいという強い気持ち。

「彼はそれらの動きを自分のものにし、さらに発展させていったのです」
と、ジェフリーも言っている通り、これこそがマイケルをマイケル・ジャクソンたらしめる理由。

その先の革新へと、限界を設けずに進む。
あるひとつのダンスの動きでは、マイケルよりも素晴らしい技術を持つ人はそれこそごまんといるのでしょうが、なぜかマイケルには「上手い」を通り越して惹きつける「何か」があるんですよね。
理屈ではない「マイケル・ジャクソン」というスタイルだと言わしめるものが。


これまた別のジェフリーのインタビューから一部(source:Bad Choreographer Remembers Michael Jackson

彼は色々な事を、色々な人から取り出すんだ・・
サミー・デイビスJr.から、エルヴィスからほんの少し、ジェームズ・ブラウンからも少々、ボブ・フォッシーからいくつか、フレッド・アステアからも、そしてストリートで起こっていることからもね。
そうしてそれらを組み合わせるんだ。全部を混ぜ合わせるんだよ

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マイケルと接した本当に多くの人たちが同じように言いますね。
スポンジのように吸収して自分のものにしてしまうと。

彼の自然な優美さ、リズム感、そして自分が面白いと感じたところなら誰のものでもどこからでも、その考えや技術を吸収してしまう驚くべき柔軟性が、マイケル・ジャクソンスタイルを創りあげた。

彼はひとり、ネバーランドのダンススタジオで、尊敬すべき先人たちから影響されたものや、彼のアンテナが反応したもの・・それは幼い日に観た憧れの人のステージの記憶から、古いミュージカル映画から、タップから、ジャズから、バレエから、そしてストリートで生まれた新しいダンスからの動きを、黙々と研究し取り入れ、そして統合していったのですね。

学んで研究するまでは、誰でもできそうなことですが、絶妙なバランスで、さまざまなものをうまく調合する、というのは、実はなかなか難しい事ではないでしょうか。

マイケルは脅威的な独創性をもってそれを成し遂げた。
その努力の果てに完成されたものは完全なオリジル、マイケル・ジャクソンスタイルとなりました。

彼のこの、もはや自分の使命かのような信念は、ダンスのみならずマイケル・ジャクソンを物語る全ての分野を網羅するほど多岐にわたって貫かれました。

自然な呼吸と同じ感覚になるまで学び
自分を形作る細胞と同化するまで練習し

そのうえで、その先の境地へと、その先の高みへと手を伸ばし続けた人。

彼のその献身的な情熱は、崇高で美しく、だからこそ、その果てに彼から世に放たれた、彼の全身全霊をかけて創りだされた楽曲たちやパフォーマンス、ステージングや演出、そして映像作品たち・・
それらは、公正に評価されてしかるべきなのです。

BAD25の成功は、曇りのない目で見ればあきらかな、その作品たちの素晴らしさを再び世界中が認めた証なのでしょう。


By the talent given me by God
Training cultivating it.
Studying the greats in my field and becoming greater.
like a scientist searching persistent
confident to be the Best.
Study the greats and become greater.
Reach the Zenith of my ability as an actor singer dancer. M.J.

神から与えられた才能
それを耕すトレーニング
自分の分野の偉人から学んで、より大きくなること
根気よく研究する科学者のように
ベストである自信をもつ
素晴らしい先人から学び、彼らを超えること
俳優・シンガー・ダンサーとしての自分の能力の頂点に達する M.J.


すでにバカみたいに長くなってしまいました
最後はやはりジェフリーのDDDインタビューより抜粋させてもらってお別れします^^

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彼はナンバーワンになりたがっていた。
最高のアーティストになりたがっていたのです。
ナンバーワンになることが、彼の使命だとわかっていたのです。
彼は同世代のR&Bシンガーではなく、チャーリー・チャップリンやジェームス・ブラウン、サミー・デイヴィスJr.をリスペクトし、熱心に勉強していました。
彼の世代より前の偉大なエンターテイナー達をです。
彼自身が偉大なエンターテイナーになるためにです。

He studied great entertainer, so that he could become a great entertainer himself.


Study the greats & Become greater 掟破りのその5

本日何をどう間違ったのか、その6なるものが先にUPされちゃいまして、やだもう、その5だけでも掟破りなのに、今回も続きがあるわけ?っていうネタバレがすでになされてしまいました。
つーまーんーなーいーw

でもとにかくまたもや長い記事なんです。
途中でいやになったら、とっとと閉じちゃって風呂入って寝ちゃってくださーい(^_^)v


そもそもこのStudy the greats and Become greaterシリーズは、年末のBAD25ドキュメンタリー(邦題:BADのすべて)で、野心燃え盛るイケイケマイケルのステキお仕事の模様にうっとりしたところからスタートしたわけなのですが、書いている途中で、やっぱり何度も何度も録画を見直しているうちに、ある一人の登場人物のことを「だめじゃん、この人忘れてちゃ!」と思い、彼についてあらためて調べなおしていると、「あらやだ、こんなステキなものが」というのに出くわして、どうしてもこれ書いておかなくちゃ!と思ったのが、ちょうどシリーズその3ぐらいの時だったのですが、内容はすでにその4までできちゃってて、いくらなんでもここから「その書きたい事」を書くには、「長すぎるよなぁ」と思い直し、「ま、いーや、別のエントリーで書こう」と思ったにもかかわらず、どうしても書きたい内容がStudy the greats and Become greaterに絡みまくるもんで、とうとう「終わります」と言っておきながらのまさかの「その5」とあいなりました。
どーだ、この前置きの長さww

忘れちゃなんねえと思った人物とは、この方です。

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Jeffrey Daniel

彼についてはもうご存知の通り。
マイケルにムーンウォークの元となったバックスライドを伝授したと言われる、BAD、Smooth Criminalのコレオグラファーですね。

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一番右の端っこにいますいます^^

んが、それだけではなく、彼は1970年代のアフリカンアメリカンの聖地、カリスマソウル番組ソウルトレインの専属ダンサーを経て、ドリカムの原型と言われている(言われてないYO!w)男性2人女性1人(Jody Watleyと Howard Hewett)のファンクでソウルなグループ・Shalamar(シャラマー)の一員にして、ピクサーアニメのカーズの原型と言われ(言われてないKA!w)あの川崎麻世が「新幹線ハシモト」(笑)としてローラースケートでぶいぶいいわせた、人間機関車ミュージカルである「Starlight Express:スターライトエクスプレス」初演に、未来の機関車エレクトラ役で抜擢され、新幹線麻世以上にぶいぶい滑りまくり(おっと、麻世とは競演していませんが)、その華麗なローラースケーティング姿に、あの泣く子も黙るジャニー喜多川が光GENJIに「YOU,滑っちゃいなよ」とローラースケートさせることを思いついたというもっぱらのウワサ(うそw でもジャニーさんとは本当にお友達らしいですw)なぐらい、素晴らしいキャリアの持ち主さんなんですね^^


シャラマーのBIG HITのうちのひとつはこちら。

A Night To Remember / Shalamar


大好きだった歌だよ~も~。
ジェフリーいるの知らなかったけど、当時から赤いバーテンダー好みだったから許してねw
FMでよく流れてて、Gonna make this a night to remember Get ready tonight♪ここだけよく歌ったです^^



ちなみに「Starlight Express」のエレクトラはこちら。
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さ、さすが・・未来の機関車なだけある・・w
この配色ですぐに思い出したわ
アメリカのお化けw
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こういうのいらない情報っていいますかそうですかw



ちなみのちなみにマイケルはロンドンで行われたこのショーを観に行ってますね。
バックヤードで出演者とも話したというから、DANGEROUSツアーの金フン構想はジェフリーの隣の彼女のハイレグを見てひらめいたというわけですね!(そうであったらなんか嬉しい・・けど違うw多分ww)


で、このエレクトラの子供の塗り絵的カラーセレクトの衣装ですが、でも白黒にするとどうです?

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あれ?ちょっとなんとなく・・似てないっすか?




この方のお召し物にw
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どうも中央デルタ地帯を盛り上げるのがお好きなようでw

すごーい似てるなぁと思って調べましたらば。
実はStarlight Expressの衣装デザイナーであるJohn Napierさんは、やはしキャプテンEOの衣装デザイナーでもあったのですね。(source:Wikipedia
どうりで似てるわけです^^


BADドキュメンタリーのアテレコではなんとなくちょい悪オヤジっぽく「俺が~だぜ!」と、杉ちゃんより正統派ワイルドさを醸し出していましたが、実際の彼はとても真面目な紳士で本当にいい人なんだそう。
でもわかる。
どうしてかっていうとね。
2010年大阪のスカイビルで行われたネバランコレクション。
わたしがバカみたいに通い詰めた、今から考えたらあれだけのスケールのマイケルゆかりの品々をほぼ3か月も展示し続けてくれた奇跡のようなイベント。

後半は主宰側が予定していた期間も、とてもステキなアイデアも、ことごとく大人の事情の障害にあってどうしても実現できずに、やむなく急に終了してしまいましたが、わたしは今でもとてもとても感謝しています。

夢のような日々でした。

中でも懐かしく思い出されるのは、マイケルのお誕生日に、みんなで祝おうイベントが行われて。
ユーコ・スミダ・ジャクソンさんのステージが目玉で、でも本当はもうひとりゲストが決まっていたのですが、直前にダメになって。
そのことを知って、たまたま主宰側の日本語上手な社長とお話しする機会があった時、わたしたちは自分たちも残念だけど、さぞ彼も残念がっているだろうと思っていたのですが、あにはからんや彼は満面の笑顔でこう言いました。
「ダァイジョ~ブダヨ~!モットexciting(ここはさすがにネイティブ発音w)ナguestガクルンダヨ~!ホントハナイショダケドトクベツニオシエテアゲルヨ~、ナント、Jeffrey Daniel(ここ、さらにネイティブ発音)ダヨ!アノJeffreyダァヨ~!!」
とても興奮している様子で。

わたしは当時そのジェフリーという人が、マイケルの振付師だという認識しかなかったため(勉強不足を今は呪う(/_;))社長の興奮度がストレートに伝わらず「へ、へ~」レベルのリアクションしかできずに若干申し訳なかったのですが、彼は気にせず「スッバラシイコトデショ~!ホントニレキシテキナコトダヨ~!」とひとりテンションはどこまでも高かったのでした。

そして当日、ジェフリーはやってきてくれて、「天国のマイケルにみんなでHappy Birthdayを歌おう!」といって、へぁぴぶぅぁすでぇいとぅうゆぅう♪と歌い出してくれて、そこに集まった何百人かのファンたちが空のマイケルに届けとばかり全員でHappy Birthdayを歌った時の、心震えるような感動は今も忘れません。

Happy Birthday Michael in Neverland Collection 2010


なんだかんだ英語で話していた彼が、急に日本語で、「ジャパン!ジカンハヤイデショ」って話した時、びっくりして、またまた、たまたまそばにいた例の社長に「彼日本語話せるの?」と聞いたら、そんなことも知らないのか?的な顔で「ソリャソ~~ダヨ~~!Jeffreyハオーサカニスンデタンダヨ~」と言われた時の衝撃!
ビリー・ザ・ブートキャンプのビリー隊長が同じ市に住んでいると聞いた時と同じぐらいの衝撃でしたw


その後、イベントでの彼の出番が終わり、例の社長が彼をエスコートするように彼の前を歩き、とても背が高くて長い足、なのに小さなキャリーをごろごろと引いて、足早にその場を去ろうとしているジェフリーを見かけたわたしは、下手くそな英語で「ミスターダニエル、さんきゅーそーまっち」とお声をかけました。
聞こえたのかこちらを見ながら彼は笑って(多分ね、グラサンしてたけど歯が見えたw)、手を振りながらてってけてーと歩いていきました。

その時に思いました。

きっといい人だって^^

おそらく急遽オファーを受けて、でもなんとかしてやってきてくれたんだと思います。

彼は、シャラマーで活躍していた頃、剣道を習うほどの親日家だったらしく、2000年初め頃日本に拠点を移し、その際北海道や大阪に居を構えていたそうで、特に大阪には長くいたそうです。
心斎橋界隈がお気に入りだったそうw
現在はロンドン、アメリカ、日本、アフリカをベースに活動されているということ。

2009年のユニクロ・カラーデニムCM(藤原紀香・大沢たかお出演)ではコレオグラファーとして参加、しかも最後には藤原さんとしっかり2ショットで映っています。

そのCMはこちらでご覧になれます。
0:31~1:01までがそのCM。(見たよこれ・・覚えているもん。知らなかったなー)

おしゃれさんのジェフリーは、1983年にヴィヴィアン・ウェストウッドのパリコレ、1984年には山本寛斎さんの東京コレクション、1985年にはミチコ・(コシノ)ロンドンのコレクションにモデルとして参加したそう。
BADの撮影の時に寛斎Tシャツ着てましたもんね^^

なんだかジェフリーのことやけに詳しいじゃまいかって?
ふっふふふ。
ネタを明かすと、実は2010年に発売されたダンス専門誌「DDD」の10月号が1冊まるごとジェフリー特集で、それ読んでお勉強したからなんですのよ奥様^^

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もちろんマイケルとの話も巻頭から15ページほど割かれていて、なんだか途中で胸が熱くなって。
あのバースデーイベントの日、何にも知らないわたしが、「いい人なんだろうなー」と思ったイメージがそのままやっぱりいい人だったというのが、彼のマイケルに向けられた言葉の数々から感じられ。
なのでぜひそういう部分を知っていただきたいなと思ったので、レビューみたいな形でちょっとご紹介させていただきますね。

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大人気だったジャクソン5のことは、テレビで見てもちろん知っていて、学校でも「昨日のジャクソン5見た?かっこよかったなー」なんて話題にはしていたそうですが、実際ジェフリーがマイケルと言葉を交わすのは、1979年彼がシャラマーとしてデビューした後も、ダンサーとして出演していたソウルトレインの番組収録の時。
紹介された時マイケルは、シャラマーのヒット曲「Second Time Around」をいきなり歌ったそうで、ジェフリーはすでにマイケルが自分のことを知っていたことに感動したそうです。

マイケルが歌ってくれた「Second Time Around」はこちら
いかにも70年代衣装の、ステキなアフロのジェフリーにご注目^^


その後1980年に、ディズニーランドでシャラマーのライブを行った際、小さいジャネットを連れてマイケルがお忍びで観に来て、舞台袖からガン見されて、その後電話で正式にダンスを教えてとオファーがあったそうです。


※ここでちょっと脱線しますが(またかYOw)

マイケルにムーンウォークの元となるステップ、バックスライドを伝授したのがジェフリーであると言われていますが、調べた限りでは1980年当時ジェフリーと彼の仲間である Geron "Casper" Candidate、Derek "Cooley" Jacksonの3人からというのが正しいようです。
同じ時期に、マイケルのスタッフからキャスパーとデレクに連絡が入り、やはりソウルトレインで観た(ジェフリー・キャスパー・デレクら3人は番組内で1980年に披露しています)バックスライドを教えてくれとオファーがあったということです。
ここらへんは、昔からネット上で知る人ぞ知る論争だったようで、マイケルに教えた最初はキャスパー達だとか、別のダンスグループであるエレクトリック・ブガルーズのメンバーが最初だとか、喧々囂々と。
ああ、それとか、マイケルが真相を話さず「ゲットーで踊っていたkidsからさ」なんて著書やオプラのインタで話していることを非難する意見もありましたねぇ(苦笑)

これはわたしの推測ですが、当時新しいダンスの形であったポッピングやロッキングと呼ばれていたLAスタイルのダンスは、いわゆるレッスンで教えてもらうようなものではなく、ストリートやクラブなどで見様見真似からそれぞれ習得していくもので、それを天下のマイケル・ジャクソンが「ぼくダンス教えてもらってまーす」というのは、当時のMJイメージ戦略からすると、著しくイメージを損なう話に思えます。
それならば、いっそストリートで踊る子供に教えてもらった方が、いかにもマイケルらしいわけで。

バックスライド自体も遡れば、そのルーツとなる動きは1940年代頃からすでにあったわけで、そういう意味ではみんな誰かの真似をして、その動きが進化して、どこで革新的に新しくなるか、爆発的にウケるか、急激に認知されるかというだけの話だと思います。
ですから、実際マイケルは複数のダンサーたちにステップを見せてもらったり教えてもらったりという機会があったのではないかと思います。
ある一人の人物だけではなく、自分と関わる、それぞれの当時のいわゆる「アーバン・コンテンポラリー・ダンス」を踊るダンサー全員から、何かを真似て何かを盗み何かを吸収したのだと思います。

その中で、ジェフリーは長期間マイケルと一緒に過ごしたようですので、特にジェフリーのバックスライドを参考にした、というのが本当のところではないかと思ったりしました。



話を戻して。
マイケルのエンシノのおうちに通うようになったジェフリー。

ここよりDDD(dancedancedance)2010年10月号よりインタビュー部分一部抜粋
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Q:何故、マイケルはあなたからダンスを学ぼうとしたのですか。

それは彼に聞いてください(笑)
私がその質問に正確に答えることはできませんが、おそらく彼が知らないことを私たちがすでにやっていたからかもしれませんし、バックスライドやボディ・ポッピングの動きに大変な興味を持って、それを覚えたいと思ったからかもしれません。
彼はすでにスターでしたから、気軽にクラブに出かけて行ってそのようなダンスを学ぶことなどできませんでした。
誰かが彼の家に行って教えるしかなかったのです。

彼は当時、私達がやっていたことと同じ事を試していました。
それは、ジェームズ・ブラウンの動きに当時LAで流行っていた違うタイプのダンスを取り入れることです。
マイケルはまだ若かったので、彼なりのやり方でやっていましたね。


Q:マイケルはあなたからどれくらい影響を受けたと思いますか

もちろん、マイケルは私が彼にダンスを教える前からすでに、自分自身のダンススタイルを持っていました。
ですから私が彼に影響を与えたとすれば、彼のダンススタイルを少しばかり開拓したというところでしょうか。
私の踊りを彼に見せ、一緒に踊ることで、彼は自然に次のレベルに進んでいったのです。
彼はすでに「マイケル・ジャクソン」であり、すでに偉大なダンサー、パフォーマー、エンターテイナーでした。
ですので、彼のすでに確立されたスタイルに私の持っている動きが加わっただけというか。

彼は私が持っている様々な動きを具体的に習得しようとしました。
そのため具体的なひとつひとつの動きを私とまったく同じように踊れるまで練習していました。
それで、彼はそれらの動きを自分のものにし、さらに発展させていったのです。

その後、私はシャラマーを脱退し、それらの動きをステージで披露することもなくなったのですが、マイケルが私の動きをステージで披露しているのを見て、周りの人が「ワオ!君は本当に素晴らしい仕事をしたんだね!」と言ってくれました。
この賞賛は私にとって生涯で最高の喜びです。
「昨夜のシャラマーのステージは素晴らしかったよ」と言われるのももちろん嬉しいですが、「君とマイケルとの仕事は本当に素晴らしい」と言われる時の気分というのは、なんと表現したらいいか・・。
でも、マイケルは世界一のエンターテイナーであり、その彼に踊りを教えたことに対して周りの人が私にまで敬意を表してくれるなんて、畏れ多い気持ちになります。
ですので、マイケルが亡くなるまで、私は自分のインタビューで決してマイケルに踊りを教えたことについて語らなかったのです。
マイケルとの仕事は私にとっては特別なものですが、それはただそれだけのことなのです。


Q:レッスン中のマイケルはどんな人でしたか

彼はとにかく笑うことが大好きでした。
私たちはずっとジョークを言い合っていました。
私たちはどちらも冗談を言って周りの人を笑わせることが大好きですが、ダンスに対してはどちらも真剣に取り組んでいました。

あと彼は、私もそうですが、完璧主義者でした。ですから、少しでもわからないことがあるとすぐに質問をしてきました。
それと、とても正直な人ですね。彼には誰も嘘をつくことができません。
なぜなら、彼は嘘をすぐに察知し、またその嘘に気付いていない振りができないのです。
一度、彼に言ったことがあります。
「マイケル、君は今僕が言っていることを真剣に聞いていないね」って。
彼は「What? How did you know that? え?どうしてわかったの?」と答えました。
彼は決して「ううん、ちゃんと聞いているよ」などと誤魔化してみたり、嘘をつくことができないのです。
彼はただ「You noticed that, didn't you? 君は気付いていたんだね」と正直に話します。
誰に対しても正直でした。

また、彼は決して怒りません。
いや、それは間違いですね。どんな人間にも怒りの感情はあります。
ただ彼は決して怒りを態度に表すことはありませんでした。
例えば、彼が何かに対して怒りの感情を覚えたとします。
ダンスのステップが気に入らなかったり、彼がそれは間違っていると感じたり、それでも彼は決して、誰に対しても苛立ちを見せることはありません。
「NO!そうじゃないってば」とか「それは気に入らないね」とか言って、声を荒げることはありません。
そう言う代わりに彼は、「This movement may be a little bit too much, What you think? この動きはちょっと大きすぎるかもしれないね、君はどう思う?」とか「Should I do it like this...What's your idea? こうするべきなのかなぁ、君の意見は?」とか言って、相手に考えさせる時間を与えるのです。
そのような配慮を持った人間を私はマイケル以外に知りません。
彼のような優しさを持つ人間は珍しいと思います。
結局は自分の間違いを正すにしても、「それは気に入らないから、今すぐ変えなさい」と命令口調で言われるより、彼のやり方のほうが誰だって気分はいいものです。

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この時期のマイケルとの思い出が別のインタビューでも語られています。
いかにも先生と生徒、なんていう風ではなく、集中する時は真剣に、でもあとは、本当に二人の才能あるダンサーがお互い刺激しあいながら楽しんでその時間をすごしたことがよくわかりますので、これも一部抜粋で記しておきます。

Source:TIME誌 REMEMBERING MICHAEL-Jeffrey Daniel

彼は決まって毎週日曜日にダンスレッスンを行っていた。
よく覚えていないけれど、僕とのレッスンは何週間かにわたって週に1度、2時間ぐらい。
それほどキチンとしたものじゃなくて、OK,こんなステップだよ、次はこんなステップ、みたいな感じ。

すごく楽しい感じだったね、おバカに振る舞ったり、チャーリー・チャップリンみたいに歩き回ったり、お互い顔を突き合わせてからかいあったりね。
だいたいそんな感じで、僕らはダンスを通じてとても仲良くなっていった。
特別な動きの時は集中して踊った、でもたいていはダンスを見せ合ってただ楽しんでいる二人の男って感じだった。

そのあとは、フレッド・アステアの映画を見て、ジーン・ケリーを見て、ニコラス・ブラザーズを見て、サミー・デイビス・Jr.を見るんだ、インスピレーションを得るためにね。
知らなかったけど、彼ポップコーン食べるんだ、だから僕も食べることができたよ。
一緒に座って映画を見てると、彼が靴で床をこすって変な音を出すから、爆笑させられちゃうんだ
しかも映画に合わせて一人で歌い出しちゃうし。
僕はこんな感じだった、なんだよもう、どこにでもいるヤツじゃんみたいな。

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出たー!マイケルのお馴染みGREATな先輩たち!
この時期はポジティブシンキングメモをばんばん書いていた時期でもあります。
本当に勉強熱心で納得するまでやりたい完璧主義者なんだからーまいけるー^^

実はジェフリーは8月24日生まれ。
そう、マイケルと同じおとめ座。
ジェフリーも完璧主義で、しかも女性に対してシャイなんだとか(うそだねw)
マイケルと好みやこだわるところがよく似ていたそうです。
例えば、白靴下とか白い下着とか・・ですって。ぷぷぷw


・・て、・・あーあー

またこんなに長くなりました。
まさかの続く、ですw

Study the greats & Become greater その4

マイケル・ジャクソンを真似るなんて不可能だ。どうしてわざわざそんなことをする? 肩の力を抜いてゆったりと見惚れていればいいのさ - Mikhail Baryshnikov


2006年から2008年までマイケルが拠点にしていたラスベガスへも、ドーメシアは通い続けました。

「時々スタジオへ行く途中に末っ子のブランケットを見かけたわ。
この2年の間は、(※記事は2009年のもの)ラスベガスの彼の家のスタジオでレッスンをしていたの。
一度、私たちふたりともステップをとちっちゃって、踊りがグダグタになった時があったのだけど、その時ブランケットがドアのところで笑っていたの。
とてもステキな瞬間だった。ブランケットがいるととても楽しいの*。

マイケルは、タップダンスを愛していたわ。
ニコラス・ブラザーズとフレッド・アステアを本当に愛してた。
彼は、自分の望みがはっきりしていたの。
タップが奏でるリズムが好きだったのよ。
私のタップをよく座って見ていたわ」

大抵ドーメシアの方が早くスタジオに入って、マイケルを待つ間、彼女はタップシューズを履いてウォーミングアップをしていました。
スタジオに入ってきたマイケルは、タップを踏む彼女を座ってじっと観察するように見ていました。
そして彼女がタップを終えたら、「Wow! Those rhythms are great 君のタップが奏でるリズムは素晴らしいね」と言ったそうです。

マイケルが彼女のタップシューズに贈った言葉
00_MJ_ tapshoes for Dormeshia_You are excellent honestly2

Dormeshia You're excellent Honestly
ドーメシア 君は最高 本当だよ




タップダンスには主に、アステアやジーン・ケリーに代表されるような、ただステップを踏むだけではなく、音楽に合わせた上半身の振付けもある「ブロードウェイスタイル」と、リズムを重視し、シンプルにステップが中心の「リズムタップ」があるそうです。
振付などなくもちろん音楽もなく、体全体を大きく使って強弱をつけ、自分たちの踵の音そのものが音楽になるスタイル。
リズムタップは、もともとアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが、仲間同士で会話することを禁じられたことで、足を鳴らしてコミュニケーションをとったのが始まりだと言われているほどの、黒人の魂の踊り、魂のルーツでもあるダンスなのだそうです。

踵を蹴り、つま先を踏み、そうして自分たちの感情を音に託して響かせる声無き言葉。
彼ら黒人には、ストンプに表現されるように、モップの音、グラスがぶつかる音、そして足音といった単なる音たちからビートを生み出し、そのビートが紡ぐリズムに身を任せるうちに、あるいは自分の鼓動をリズムと共振させるうちに、自然に踊り出さずにはいられないDNAが、広大な大地と共に生きていた時代にはじまり、哀しい歴史に翻弄された祖先を経て、何世代にもわたって脈々と受け継がれているように思えるのです。


When I dance, if you’re a dancer, you know, you’re just interpreting the sounds and the accompaniment of the music.
If there’s a driving bass, you become the bass.
If there’s a cello or if there’s a string, you become that.
So you become the emotion of what that sound is.
中略
・・So I’m a slave to the rhythm.

僕、というかダンサーが踊る時は、音楽に付随している音たちを読み取って表現しているんだ
もしノリのいいベース音があれば、そのベース音になる
チェロや他の弦楽器の音ならその音になる
音の持つ感情そのものになるんだ
・・つまり僕は奴隷のようにリズムに抗えないのさ


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これは1993年のオプラ・ウィンフリーショーで、「股間に手をやるのはなぜか」と直球で聞かれたマイケルのお答え部分の抜粋です。
略した部分は「そんなふうに音に感情移入しているから無意識なわけで、音楽がそうさせてるわけで、あとからそんなしぐさをしているのがわかってびっくり」みたいな、普通の人が聞いたら下手な言い訳に聞こえそうなことを語っているので省いています。
基本わたしは例の動きは絶対に確信犯だと思っていますがw、「音の持つ感情そのものになる」と言っている箇所はまさにリズムタップダンサーの言葉に思えます。

I’m a slave to the rhythm ― 僕はリズムのとりこだと語ったマイケルも、もちろん例外でなく前述の魂のルーツが刻まれたDNAの持ち主であって、その遺伝子に導かれるように、自分が信じる感覚のままに踵を蹴ることで、自分の喜怒哀楽の感情を音に乗せ、あたかも自分自身がリズムを奏でる楽器になる、そんなリズムタップを愛した人だったのではないでしょうか。

その上で、エンターテイメントに誠実な彼は、文化でさえ人種の垣根に区分けされがちだった時代の慣習に惑わされることなく、素晴らしいものは素晴らしいとして純粋に、白人のアステアが優雅に舞いながら蹴ったタップをはじめ、さまざまな分野の要素を自分スタイルへ組み入れていったのだと思います。


その要素のひとつには、おそらくバレエも影響していたでしょうね。
This Is It・DVDの特典映像の中で、トラヴィスとほんの少しバレエの話をしていますよね。
トラビスが「ジュテ(跳躍)とかリフトとかあるでしょ?バレエのそういうのを見るのが大好きなんだ、バリシニコフとかも」みたいなことを言うと、マイケルも
It's beautiful. It's the most disciplined of all the forms of dance. バレエは美しいよね。数ある踊りの中で最もフォームが整っているよ」と答えていました。

フォーム。

バレエの基礎は一にも二にも「正しく美しいフォーム」だと聞いたことがあります。
型がきちんと決まっていて、そのうえで指先、つま先まで神経を行き届かすことが大事、とはいっても決して固くなってはいけなくて、あくまで動きは柔らかく、といった。
わたしのような素人が観ていても、美しく踊るバレエダンサーはとにかく体幹がしっかりしていて、上半身が猫のように柔らかくしなやかに動くのだけれど、決してブレずに最後にはぴたっと正しい姿勢をキープしているように思います。
軸がゆるがず美しいフォームを維持するということは、背筋と腹筋が想像以上に鍛えられているのでしょうけれど、それを微塵にも感じさせない柔軟さも備わっていなければならないのでしょうね。


マイケルのダンスにも同じことを感じませんか?

天性に備わっていた卓越したリズム感と柔軟性、そしてどれだけ激しくステップを踏んでいても、それに引っ張られて惰性で上体が動くことはなく、上体に振りがあっても、決め時のポージングでは全くぶれることのない、その上半身を支える体幹の揺るがなさ。
上体の重心が後にも前にも偏らないことで生まれる美しさ。
以前にも書いたような気がしますが、それはまるで、どれだけ水面下で激しく脚を動かして水をかいていても、水上に出ている姿は微々とも動かず、いかにも優雅に水面を滑る白鳥の姿を見るようなのです。


トラビスが引き合いに出した偉大なバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフ。
彼はピルエット(回転)の神様と呼ばれていたそうです。
マイケルはタップの先生を紹介して、とデビー・アレンにお願いしましたが、こんなお願いも彼女にしたそうです。

「彼は「バリシニコフのようなピルエットを教えて欲しいんだ」と言いました。
だから私は言ったのです。「あなたは、すでにバリシニコフよりうまく回っているわよ」って」


そのピルエットの神様が、2009年に冒頭の言葉を語りました。
1986年5月に、エリザベス・テイラーを介してバリシニコフ(同じ年に彼はアメリカに帰化していました)に会ったマイケルは、バリシニコフ曰く「12歳の子供のように」多くの質問をしてきたそうです。

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ハーイ!よい子のみんな、リチ男だよ!僕もこん時一緒だったんだ~♪

彼らはバレエについても沢山の話をしたそう。
そして彼は、マイケルのことをこんな風に語っています。

「彼について最も思い出されることは、彼のターンでも股間掴みでもない。
彼のなんてことない普通の動きだよ。
リズムに乗って弾むようにステージを横切る歩き方とか、腰を揺らす、飛び跳ねる・・そういう動きが最も美しく、そして人目を引くんだ。
僕にとって彼とは、自分の肉体に絶大なる信頼を寄せているダンサーだ。
わお、こいつはなんて奴だ、自分の好きなように動けている!と言いたかったよ」

天才と評されたバリシニコフに「自分の思い通りに体を操ることができて、しかもステージ上の何気ない普通の動きが美しい」と言わしめた彼。
強靭な体幹としなやかさを生む柔軟性、リズムと一糸乱れずに動くことができる身体能力、そして何よりも自然な優美さ。
ダンサーならば誰もが欲しがるそれらを完璧に備えたダンサーだと。
バリシニコフの言葉は、舞踊に携わる者同士で贈ることができる最大の賛辞だったのではないかと。

マイケルの事ならばなんだっていいように解釈しすぎっていわれるかな?
でもいいんだ。そう思うんだもんww
で、えーと・・あれ?また脱線していますかこれ?w




ドーメシアが最後にマイケルと一緒に踊ったのは2008年の9月だったそうです。

「彼は「大きなプロジェクトに取り掛かっているんだ」と話していたわ・・
彼はフレッド・アステアとニコラス・ブラザーズのタップスタイルを研究して、自分のスタイルに融合しようとしていたのよ」

大きなプロジェクト

THIS IS IT

正式契約の1か月前


They are getting an element of me, They are never seen before
観客は今まで見たことがない僕の一面を見ることになるよ

From bonus footage of THIS IS IT DVD

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見たことのない一面に

あの黒革のタップシューズで床を蹴る姿・・も含まれていたのでしょうか


誰にも真似のできない高みへ登るために
誰も見たことのない自分を魅せるために

Study the greats and Become greater

自分より優れていると認めた人に教えを乞い、自分の感性が必要だと思ったことを吸収し、どこまでも謙虚に、そして貪欲に、自分自身の思う頂点へと自分を高める努力を怠らなかった人。

学んで研究して練習する・・そういった努力を自分に課すからこそ、月並みなものでは絶対に満足しない人。

ドーメシアの言葉です。
「エイトカウントの最初のワンに4時間レッスンを費やそうとも、完全に体に叩き込むまで次のカウントに進もうとしない人だった。
マイケルはダンスに対してそんな敬意と愛情を持っていたの・・」

似たような事を、BAD25ドキュメンタリーにも出ていたお馴染みBeat Itでナイフを振りかざす一触即発にいちゃんのひとりをあくまでも演じたw 振付師のヴィンセント・パターソンが語っています。

「マイケルの完璧主義を物語るいい例えがあるよ。
Smooth Criminalのダンスの中で、何度も繰り返す一連のダンス・フレーズがあって・・
僕が振付けたところなんだけど、マイケルは鏡の前で何度も何度も同じカウントを4時間も練習していたんだ。
僕は彼のそばに行っては言い続けた、「マイケルこっちに来なよ・・ 休憩しよう」とね。
でも彼はこう言うんだ。
「No, Vincent…I want to do this ‘til it’s perfect. いや、いいんだよ、ヴィンセント・・完璧に踊れるまでやりたいんだ。」
マイケルは自分自身にとても厳しかったよ」

マイケルが4時間もひたすら練習した「何度も繰り返す一連のダンス・フレーズ」って?
まさか誰もが知っているSmooth Criminalの象徴ともいえるあのルーティン・・

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磨けば磨くほどまばゆい輝きを増していくダイヤモンドのように
手をかければかけるほど麗しく咲き誇る薔薇のように
自己へのハードルを上げ続け、なおPerfectを追い求めた人。

ダンスは Michael Jacksonを構成する一つの要素にすぎない。
でもそのたったひとつにこれだけのこだわりと信念。
自らに限界を設けることなく頂点を目指すからこその完璧主義。

ならば

そのゴールへ到達するための取捨選択は彼にとって必然。
その道程にふさわしくないものを「切り捨てた」のではなく、必要なものを「選んだ」のだと
わたしは思います。


Study the greats and Become greater

わたしたちは知っています。
彼がそれを成し遂げたのだということを。

さまざまな偉大なる先人に学び、吸収する姿勢を崩さず、完璧を求め努力を怠らなかったからこそ、人々に刺激を与えインスピレーションを与え、感動を与える存在になり得たのだと。
今この時、彼自身が誰かのGreatなのです。


11年間、彼にタップを教えたDormeshia Sumbry-Edwards ドーメシア・サンブリー・エドワーズはマイケル・ジャクソンを世界で最も偉大なエンタテイナーだと考えています。

「何十年もの間、彼は沢山のダンサーを奮い立たせてきたし

There are still aspiring entertainers who are studying Michael
いまだにマイケルを研究している若い意欲的なエンタテイナーがたくさんいるのだから」

そう。わたしたちは知っています。
He study the greats and DID become greater.




またもや長い思い込み大爆発な記事になりました。
実はこれを書いている途中で「絶対書きたい!どうしても書きたい!」というのが出てきたんですけれど、それ書いたら収拾がつかなくなりますので
ここで一旦終わりにしますw

ここまでお付き合いくださった方に今日も感謝を^^


--------------------------------

<ご注意>
*ドーメシアがブランケットと交流するくだりは、わたしの英語レベルではむずかしく、相当思い入れと思い込みの激しい意訳になりました。きちんと確認したい方は下記原文をお読みくださいませw
基本マイケルを語る人の言葉は忠実に訳し(たつもりw)ましたが、今回の記事内容の流れ上、原文記事は、概要的に参考にさせてもらいました。

※参考記事source
Michael Jackson’s Love of Tap
Tap's Leading Lady
Michael Jackson planned to channel Fred Astaire for 'This Is It' shows
Sarah Kaufman Analyzes the Magic Behind Jackson's Dancing
BAD 25 SHINES LIGHT ON MICHAEL JACKSON’S MOST UNDERRATED ALBUM, ERA, AND COMPETITIVE OBSESSIONS

Study the greats & Become greater その3

音楽はずっとマイケルにとっての女神だったかもしれません。でも、Danceは彼の女王だったのです。-Debby Allen


マイケルのタップの先生が、病気のためにその任を果たせなくなった時、次のインストラクターにと紹介されたのは、現在も現役のタップダンサーであり、NYはハーレム・タップ・スタジオのインストラクターでもあるDormeshia Sumbry-Edwards(ドーメシア・エドワーズ)その人でした。

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マイケルは1997年9月、ABCで放送されたインタビュー番組、Barbara Walters 20/20(インタビュアーは意地悪だけれどマイケルの答える姿はGirlたちの大好物wな、あのインタビュー)のためにパリに滞在していました。

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これこれ^^ 好きでしょう?はい大好きですw

そんなマイケルに呼ばれたドーメシアは、遠くパリまで行かなければなりませんでした。
顔を合わした途端、質問魔のマイケルは彼女にも例外なくたくさんの質問をしました。
例えばこんな風に。

Can you dance like the Nicholas Brothers or Fred Astaire?
あなたは、ニコラス・ブラザーズやフレッド・アステアのように踊ることができますか?

How fast can you move your feet?
どれくらい速く足を動かすことができますか?


彼女がタップを踏むと、あろうことかマイケルは腹ばいになり、彼女の足に顔を近づけてさらに質問をしてきます。

How are you getting all those sounds out?
どんなふうにしてそんなにたくさんの音を鳴らしているの?

Do it again as fast as you can go.
もう一度、君ができうる限り速く足を動かしてみて

Can you teach me how to do that?
そうする方法を僕に教えることはできる?



そんな面接を経て、後日彼女は正式にマイケルから誘いを受け、晴れて彼のパーソナルインストラクターになるのです。

「私たちはいつでもどこでもレッスンをしたわ。
何回かはロスで、でもおおかたは週末ラスベガスで。
ベガス、ロサンゼルス、ウェストパームビーチ(フロリダ)、それこそあちらこちらでね。
スタジオにいる間、わたしたちはふたりっきり。そのうち、私は彼が一人の人間だってわかってきたの。
彼はなんでもよくわかっていた・・世界問題や宗教、家族のこと・・エンターテイメント以外の人生におけるすべてをね。
彼は、自分の子供と素晴らしい関係を持った父親であり、立派な紳士だったの」

多忙なマイケルでしたから、レッスンは通常1日につきおよそ3時間から4時間ほどでした。

「マイケルは、自分が何をしたいかがちゃんとわかっているの
ほとんど、音楽をかけずにレッスンしていたわ。
でも一度、彼のお気に入りのジャネットの曲*をかけたことがあった。
そして、「I liked the feeling and wanted to do something with that feeling. 僕はfeeling(感覚)を大切にしてきた、その感覚にまかせて何かをやりたかったんだ」と言っていたわ。

私の足の動きが良く見えるように、相変わらず子供のように横たわって、「Slower, slower, slower もっとゆっくりやって、もっともっとゆっくり」
そのあと「Faster, faster, faster もっと早くやって見せて!もっと早くもっと早く!」
そうして私を見上げてこう言うの。
「Can you show me how to do that? そのやり方を教えてくれる?」って」


足元にいるマイケルが自分を見上げて「教えてくれる?」だなんて・・はい!Girlたちの萌えポイントキター!w


ちなみに *お気に入りのジャネットの曲は、きっとあれとあれですね^^



I always tell her my favorite song of hers is Rhythm Nation and The Knowledge, cuz I love the bass lick, it really just makes me crazy, makes me wild.
僕のお気に入りの彼女の歌は、Rhythm NationとKnowledgeだっていつも彼女に話してる。ベースのフレーズが大好きだからね、本当に僕をクレイジーにさせるしワイルドにさせるんだ

Michael Jackson's private home movieより

彼の言うところの"I love the bass lick" のlickは、「フレーズ」の古い言い方らしいです。
こういうところも、わたしのツボ^^
だってジャクソンさんは昭和の人ですからw
最近はBADマイケルの露出が多いから、ピンとこない人も多いだろうけれど、1958年生まれ=昭和33年生まれなんですよねw

コーデュロイをコールテンって言う感じなのかなぁww やだーマイケルったら親近感~\(^o^)/

「ジャクソン先輩、リックってなんすか?今どきはフレーズって言うんすよ!」
「フレーズ?そうなのかい?僕が育ったころからリックはリックだよ」
「いやー、普通のオヤジが言うと古くてダサいけど、ジャクソン先輩が言うとなんかクールっすね!俺も今日からリックって言うっす!」
「それもいいけれど、”言うっす”じゃなくてちゃんと”言います”と言った方が美しいと僕は思うよ」
「あ、わ、わかりました!ご助言あざっす!」
「いや、だから・・ヘヒヒ」(苦笑するMJ)
スタジオの中でのこんな会話を妄想してしまうw


・・じゃなくて、彼の好きなベースに注目して聴いてみましょう♪

Janet Jackson - Rhythm Nation


Janet Jackson- The Knowledge



特にThe Knowledgeは本当に気に入っていたようですね。
マイケルのアルバムDANGEROUSの候補曲リストっていうのか、ちょっとした計画なのか指示なのか、もひとつよくわかっていないのですがw そんなのも書きこまれたノートがあって。

MJ_Dangerous recording sessions_Teddy extra killer better than knowledge

Best of Joy もれたんだな~・・て、注目はその次の行です。

killer dance Teddy Riley approve
Teddy extra killer better than knowledge


killer dance テディ・ライリー承認?ここ曲名なのか指示なのかこれまたわからないのですが・・
少なくとも、テディに「knowledge(わざわざアンダーライン引いてますよ奥さん!)よりもずっとイケてるいい曲」追加ね、みたいな感じでしょうかw

で、よくよく聴くと、この曲と似ているなぁって思ったのが、JAMの出だしからイントロの雰囲気。
JAMもテディがからんでますよね。
ひょっとして、「knowledgeよりもずっとイケてるいい曲」ってJAM?ww

Michael Jackson - Jam


まぁ、その辺はいつもの妄想ということで^^
ですが自分の制作メモにまで引き合いに出して書くぐらいだから、マイケルにとってジャネットのThe Knowledgeは踊りたくなるkiller dance曲No1だったのは間違いなさそうですね。

このメモはこの他にも突っ込みどころが満載。
”MA & MJ duet”は、あのマドンナとデュエット予定だったIn The Closetですよね、おそらく。
レコーディング前の初期のプランメモだったんだなぁ・・とか、長くなるからやめますw
あー、また恐ろしく脱線w



マイケルはそれまでに独自にタップを研究し、巧みにMJスタイルとして認知されているステップに生かしていたと思います。
ダンス素人のわたしには、靴のトゥとヒールを鳴らしてもらって、はじめてタップダンスなんだとわかる体たらくですが、よくよくマイケルのステップを見ると彼の音楽でその音はかき消されていても、その足さばきはしっかりヒールを蹴っていて、もしソールに金属板がついていれば間違いなくリズムを刻んでいる。

その象徴たるステップはお馴染みのこれ。
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これも。
mj-tap3.gif

ここでも。
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わたしからすれば、これで十分な域に思えますが、彼はすでにそのようなタップのテクニックが備わっていたにもかかわらず、シャッフル、パドル&ロール、クランプロール、プルバック、ドローバック、タイムステップというタップのABC、すなわち基本ステップを一から学んだのだそうです。

昨年お亡くなりになった歌舞伎界の中村勘三郎さんが、「型を熟知した者がその枠を破るから型破りといわれるのだ。型も知らずに勝手なことをする奴は形無しだ」という名言を残されていますが、まさに言い得て妙。
一度見たステップはすぐに体が覚えてしまうほどのマイケルですから、タップも独自にマスターできていたのでしょうが、何をするにしてもきちんとした基礎がベースになっていなければ、革新的な進歩もあり得ない。
若い頃から様々なことを学んでは昇華しつづけていた彼なればのエピソードだと思いました。
すでにスターであり、誰もが認めるMJというスタイルを確立させていてもなお、謙虚に、貪欲に、Study the greats and Become greater。
そしてそのような姿勢は、歌舞伎であれ、ダンスであれ、芸能の道をどこまでも極める覚悟を持ち、そのための精進を厭わない、芸事の神に愛された者に共通するものなのだとも。


基礎を終えて新しく振付しあうようになると、マイケルは「君ならここはどうする?」と熟練のタップダンサーである彼女の意見をよく聞いたそうです。
こんなところも彼は一貫していましたね。

ちなみに彼女はマイケルのYou Rock My World のSFにおいて、振付師にクレジットされています。
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エンドロールです。バックにクリス^^

彼女とアイデアを出し合って振付けたシーンがあるかしら、なんて思ってこのSFを、今回マイケルの足さばきのみに注目して、目を皿のようにして観たのですが、全然わかりませんでしたw
アステアを連想させる動きや演出などは有名なんだけれど、わたしなんかが見抜けるような簡単な振りじゃなかったのでしょうねー。
「実はここのステップがそうなんです」みたいな、それこそBAD25ドキュメンタリー的インタビューをドーメシアにしてほしい・・誰かw
そういうマイケルの創作におけるお話を聞くのが好きなもんだから、ついつい(一種のオタクですw)。



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「彼は私がクリエイトするのをバックアップしようとしていたわ。
彼がすこし手直ししたら、私がまたそれに変化をくわえて形をかえるの。
マイケルは完璧主義者だったから、たった4小節に4時間もかかったりして。
彼は1つの動きに完全に満足するまで先に進もうとしないのよ。
いろんなパーツを取り入れて、自分の一部にしてしまうのが彼のやり方。
次の動きに移る前に、それまでの動きを磨き上げようとしていたの。
私は彼の仕事にかける情熱を見たの・・とても真剣なね」


マイケルはドーメシアを自分のタップの先生としてだけじゃなく、彼女に友人としての気遣いもみせました(いつものごとく)。
ドーメシアはNYに住んでいました。
9・11でNYが壊滅的な被害を受け、市民たちが打ちのめされていた時、マイケルはいつものレッスンのために彼女に電話をかけます。
その際、2週間ほどカリフォルニアのネバーランドに、彼女だけでなく彼女の家族ごと連れて来るようにと申し出ました。
ネバーランド滞在中、ドーメシアの子供たちとマイケルの子供たちも仲良くなり、家族同士でウェストパームビーチ(フロリダ)へ行ったりもして楽しい時間を過ごしたそうです。


でも時が過ぎ、何よりも彼が大切にしていたそのネバーランドを遠く離れなければならなくなったマイケル・・



すみません。
まだ続きます。

Study the greats & Become greater その2

MJはあらゆるダンスを学んで、自分のやり方でものにしていった
Study the greats and become greater 成長するために学ぶんだと言ってね -Travis Payne



マイケルのKenny Shoesなるものを探す放浪の旅の途中、見つけたのは1足のタップシューズでした。
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sourceはやはりのこちら
そこには「マイケル・ジャクソンのタップシューズ。このCapezioの黒革タップシューズは、マイケル・ジャクソンが自身のThis Is Itツアーの準備中に着用したもの。ジャクソンは数多くのダンスを練習した、優秀なタップダンサーだった」と記されています。

オークションで出されるものの中には、まゆつば的なものもやはりあるのだとお勉強した2012年w
マイケルがTIIのためにタップを練習していた時に着用した~?
いやいや、そう簡単には信じられないなぁ・・なんて思っていたのです。

でも優秀なタップダンサーというのは頷ける。
まだドでかいアフロで毎週毎週、兄弟姉妹と一緒に、歌と踊りとドリフのコント、もとい楽しいミニお芝居なんかを披露していたThe Jacksons Variety Show(1976~77)で、タップは何度も踊っていたし、一番印象的なのは、Black Or White のSF、いわゆるパンサーバージョンで、ひとり路地裏で怒りを解放するように踊る一連のルーティンに、何度も出てくるタップステップ。

mj_tap.gif


ですが、やっぱり気になって調べていくうちに、本当にTIIのステージで、彼がタップルーティンを取り入れようとしていたという記事を見つけました。
彼の敬愛するフレッド・アステアと、アステアも絶賛した、やはり彼の大好きなニコラス・ブラザーズのタップスタイルを。


アステアに関しては、ご存じのとおりタップの世界に初めて洗練さと気品をもたらしたと言われているほど、そのスタイルは優雅そのもの。
(そのあたりのことを、嫌って言うほど書いた過去記事はこちら

対してフェイヤードとハロルド兄弟のタップデュオ、ニコラス・ブラザーズは、アクロバットタップと評されるエネルギッシュなスタイル。

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ストリート系ダンスに見られるスプリット(足を180度開脚する技。スプリットジャンプは今やもはや珍しくもなんともない動き)の元祖ともいえる技を組み入れたものですね。
アステアも絶賛した彼らのタップをどうぞこちらから。
1:06~から始まる神タップと2:28あたりから炸裂するスプリットは必見です!
マイケルが魅了されないわけがない^^

ああ、そうそう。
マイケルは先述のドリフコント込みのバラエティ・ショーで、大先輩のニコラス・ブラザーズとタップ競演もしています^^
この時も「わかいもんにはまだ負けんぞ」的にスプリットを披露してくれています。
興味深いのは、この時まだ小さかったジャネットも出演していますが、後に彼女は自身のミュージックヴィデオAlrightで、彼らと再共演しているのです。


ニコラス御大達は4:58あたりから登場

前回も書きましたフレッド・アステアの映画、BAND WAGONのGIRL HUNTでアステアの相手役として踊ったCyd Charisse(シド・チャリース)も登場する(2:54~)このヴィデオは当時大好きでした!
が、そんなすごい人たちがカメオ出演しているなんて、全然知らなかったのですけれどw

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この時代のジャネットはマイケルにガチで似ています^^


マイケルのみならず、ジャクソンさんちの兄妹たちは、こぞって幼い時に感銘を受けた偉大なアーティストたちを、いつまでもリスペクトし続けていたのですね。

あー、また脱線しましたw
話を戻して。

というわけで、アステアとニコラス・ブラザーズ、両者のタップスタイルは全く違うのですが、そこは吸収上手なスポンジマイケル。
当然彼らのエッセンスをうまく融合させたもの、しかもそれをMJスタイルに昇華させたものだったのでしょうね。
それが推測の域を出ないガセネタと言い切れないのは、実はみっちりとタップダンスの個人レッスンを受けていたことがわかったからで、そうした努力を続けていた彼ならば、きちんとした彼自身のタップ技術に裏打ちされたアイデアだったのではないかと思えるのです。
驚くべきことはその個人レッスンが、パンサータップ(えへへ、勝手に命名w)以降にスタートしているということ。
そしてなんと11年間にも及び続けられたということでした。
パンサータップは完璧主義者マイケルからすると、「だめだこりゃbyいかりや長介」的、満足のいくレベルでなかったということで。
この時すでに「マイケル・ジャクソン」というダンススタイルは確立されたと思っていたのが、聴衆や彼以外の人々の間でだけで、当の彼は、自身のダンス技術をさらに向上させるべく、人に教えを乞うたのです。
そのどこまでも謙虚な姿勢と、あくなき探究心には本当に驚かされます。


冒頭のトラヴィスの言葉にある通り、「あらゆるダンスを学んで、自分のやり方でものにしていった」マイケル。
これは、どこまでも自己を高める努力を惜しまなかった才能豊かな研究魔が、常に Study the great and become greater を怠らなかったというお話です。


マイケルが旧知の間柄で、女優であり振付師でもあったDebbie Allen(デビー・アレン)に「タップを習いたいから先生を紹介してほしい」と頼んだのが、1997年のこと。

デビー・アレンといえば、1994年 26th NAACP Image Awardsの授賞式で、彼女がBest choreographer賞を受賞し、そのプレゼンターにマイケルが登場したことが思い出されます。
前年、同じNAACP Image Awardsで、マイケルはBlack Or WhiteでBest music video賞、及びEntertainer of the year賞を受賞しました。
喜びを感謝の言葉に変えて誇らしく立ったステージ。
ですが、その7か月後、エヴァン・チャンドラーによる単なる恐喝を巧みに虐待訴訟に見せかけた申し立てが起こされます。
その身に覚えのない身の毛もよだつような容疑は心身ともにマイケルを疲弊させ、DANGEROUSツアー中断という辛い決断をも強いられました。
栄光と賛辞に彩られた授賞式から一転、試練と呼ぶにはあまりにも理不尽で過酷な日々。
ですが、94年の同じステージに戻ってきたマイケルは、プレゼンターとして壇上に登った際のスピーチで、オーディエンスに自身の潔白を訴えます。
マイケルを信じて支持するオーディエンスの声援と万乗の拍手の中、彼はデビー・アレンに受賞トロフィーを渡すのです。

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その時に、デビーはマイケルに向かってこう言いました。

God bless you Michael, we're all on your side.
マイケル、あなたに神のご加護を。わたしたちはみんなあなたの味方よ


マイケルにとって、デビーのこの言葉は、辛い彼の心を思いやる心強くも嬉しい言葉だったでしょう。



そんなマイケルの味方であるデビーは、彼の頼みごとを快諾し、信頼のおけるタップの第一人者、ポール・ケネディ氏をマイケルに紹介します。
彼女の自宅のダンススタジオが彼らの教室となりました。

デビーはこの時のことをこんな風に語っています。

「私はマイケルが自身の専門外の事を訓練しようとしていることには最大の敬意を払っていましたが、実際のところ彼には「専門外」などなかったのです。
彼が上達していくさまは、素晴らしいクリエイティヴな旅の道のりを眺めるようでした。
マイケルはとても優秀でした。
彼はサミー・デービスJr.と同じ世界の出身だから、なんでも吸収することができたのです。
うちのダンススタジオの床には、まだ彼の靴がつけた痕跡が残っています。

私は彼がレッスンをしている間、彼の小さな長男、プリンスの世話をしました。
私たちはしょちゅうキッチンに入って、コーンブレッドを食べたものです。

マイケルはフレッド・アステアのファンで、アステアもマイケルのファンでした。
彼らはお互いに賞賛しあい尊敬しあう仲でした。
ですから彼のタップがすぐに上達したことは、思いがけないことではありませんでした」

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余談ですが(またかよw)アステアはずっとミュージカルダンサーだと思っていましたが、素晴らしい演技派俳優だったのですね。
タワーリングインフェルノという映画をご存知でしょうか?
1974年に封切られたスティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンが共演したパニック映画の金字塔とも呼べる作品です。
絶対安全といわれていた超高層ビルで、いとも簡単に火災が発生し、その消火活動を行う消防士とビル内に取り残された人々の人間ドラマ。
ここでアステアは年老いた結婚詐欺師を演じていたのです。
わたしは今回アステアを調べなおしていて、初めて気が付きました。
詐欺師である自分を丸ごと受け止めてくれる老婦人と、人生をやり直そうとしていたにもかかわらず、赤の他人の子供を助けるために老婦人は亡くなります。
離れ離れでようやく生還したアステアに、老婦人がかわいがっていた猫だけが手渡され、それで何もかも察した彼の、何とも言えない哀しい表情は、わたしでなくとも号泣ものだと思います。
実は、このシーンがかわいそうすぎて、わたしはこの映画が嫌いでしたw

その迫真の演技をしていた老紳士がアステアだったなんて。

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あー、ここ、思い出しただけで泣けちゃう(/_;)

ただミュージカルダンサーとだけ括っては失礼だと今さらながら肝に銘じた次第です。
だからこそ、偉大なるダンサーで、シンガーで、素晴らしいアクターだったアステアは、同じようにそれぞれの分野でNO.1を目指していたマイケルの、文字通りGreatsだったのですね。

で、えーと・・どこまでいきましたっけw


そうそう、デビー・アレンの自宅のスタジオで、タップのプライベートレッスンを始めたマイケル。

マイケルのスケジュールがあまりに複雑になるまで、しばらくの間、そのプライベートレッスンは通常週1~2回夜に開催されました。
ところがあろうことかケネディ先生が病気になってしまい、マイケルのレッスンにもはや出席することができなくなったとき、責任感の強い先生は自分の弟子である女性に電話をかけ、「ジャクソンがタップのインストラクターを探しているから、君に会うように薦めておいたよ」と告げたのです。

その女性が、それから以降11年の間、マイケルのプライベートインストラクターとなるわけですが・・


続きます。

Study the greats & Become greater その1

2013年もすでに15日経過しましたが、みなさんお元気ですか~?(井上 陽水風)

今年はしょっぱなから、Michael Jackson THE IMMORTAL WORLD TOUR 日本公演決定のニュースが流れましたね。
今回は、名古屋や福岡のGirlたちも、わざわざ遠征することなく楽しめますね^^
もちろんわたしのいる大阪でも\(^o^)/


ああ、そうそう。

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日本公演は5月からスタートしますが、同じ5月にヴェガスのThe Mandalay Bay Las Vegas Resortの劇場でも、常駐演目としてMichael Jackson THE IMMORTAL(ツアーとは内容が変わるらしいです)の上演がスタートしますが、嬉しいのは2010年に東京タワーと大阪スカイビルでも開催されたNeverland Collectionをスケールアップしたミュージアムが併設されることです。
これは2011年のIMMORTAL初日~数日限定で催された、ファンフェストと同じ内容だということで、日本にも来てくれたあれだのこれだのも含めて、お目見えしなかったあれだのこれだのに加えて、ネバーランドに置かれていたマイケルのアーケードゲームも登場するらしく^^
日本にも来てくれた品々は、エステートが管理して持って帰ったのでw おそらくどこにも売られることはないと思っていましたから、遠すぎますけれど見ようと思えばどうにかして見に行ける(かもしれないw)ミュージアムという形で場所が用意されたのは、予想はしていたものの現実となるととても嬉しい事ですね。

いつか冥途の土産に行きたいものですヨボヨボ^^


昨年のBAD25周年記念、The Jacksons Unity Tour、Thriller Liveといった様々なMJ祭りの流れを止めることなく、今年もアーティスト・MJが沢山の人の心に生き生きと息づきますように。

その2012年のファイナルを飾るにふさわしかったのが、28日深夜にNHK総合テレビで放送された、泣く子も黙る(またかよw)スパイク・リー監督のBAD25 Documentary(邦題:BADのすべて)でした。

ただ1か所のみの違和感バリバリの和訳を除いては、いうことなし。
彼の創造作業に関する裏話は大変興味深いものでした。
わたしはぶっちゃけアニーが誰でも、チャモンがなんであっても、もっと言えばタチアナがマイケルにキスをしてガッツポーズするところなんざ、全くどーでもよかったのですがw
彼がその時何を考え、何にこだわり、スタッフたちとどう協調し、どう意見を戦わせ、どう彼らを驚かせ、どう己の才能と発想を革新につなげたのか、といった制作過程を知ることが大好きなので、全編通してわくわくしながら堪能しました^^

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以前BADのSF考察を書いたことがあるので、(お暇ならこちらへ)実際携わった関係者からの話は感動もの。
ダンスの振り付けひとつとっても「強盗をする人間の心理」を表現しようとし、わたしの好きな

00_MJ_making_BAD.jpg

ここ、ここ♪
この大きく手足を振り上げる振りに、「今の自分を変えたい(空に飛び立ちたい)」という願望を表していたとは、振付グレッグ・バージ(写真左)恐るべし・・(彼も逝くのが早すぎましたよね・・RIP)



for criminal dance2


For Criminal Dance
look at all the great Dances on Tape,
"Study the greats and Become greater"
get All BOB Fosse Movie
DANces, STUDy these insiDe
out Know every CUT, Move, Music, etc,
FLASH DANCe
ALL THAT JAZZ
BAND WAGOn "girl HUNT"
NUMber

クリミナルダンスのために
全ての素晴らしいダンスビデオを見ること
”素晴らしい先人に学んで、さらにその上をゆく”
ボブ・フォッシー映画のダンスはすべてものにすること
以下のカット割り、動き、音楽等、隅から隅まで熟知すること
フラッシュダンス・オールザットジャズ・バンドワゴンの”ガールハント”ナンバー


彼の手書きメモには目がないわたしw
特徴のあるD、そして大文字小文字が入り混じった綴り世界の治外法権といわれている(言われてないかw)彼の文字たちを見るだけでテンションがあがります^^
このSFに取り組む彼の真剣な意気込みが滲む、どこまでもストイックに高みを追及するいつもの彼のやり方。
自分が過去に書いたこと(もちろん色々な記事や資料を参考にして)の裏取りができたような気がして、あらためて彼の、天才にして努力家で完璧主義者たる所以の氷山の一角を垣間見たような気がしました。

もうひとつのメモ。

MJ_Criminal jacket

これを見てあらためて合点がいった事がありました。
本来のスムクリジャケットでは、腕章はブルーで右腕に巻いています。
このイメージでは、はっきり色は黒と指定して、なおかつ腕は左。
マイケルはこだわりの強い人なので、ラフ画の段階だからと言って適当に左腕にしたのではないはず。
ではどうして?

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Smooth CriminalのSFは、彼の敬愛するフレッド・アステアへのオマージュといわれています。
確かに、結果的にはそうなったのですが、このSF撮影は1987年2月のこと。
アステアはこの4か月後に惜しまれてこの世を去りました。
ということは、撮影時にはアステアはまだ存命中だったわけです。

ちなみに、撮影時このセットには、オノ·ヨーコ、スティーブン·スピルバーグ、ブルース·ウィリス、グレゴリー·ペック、もちろんエリザベス·テイラーなどなど、多くの有名人が陣中お見舞いに訪れたようですが、中でもマイケルが一番喜んだのが、アステアのパートナーとして多くの振付を行ったハーメス・パン(Hermes Pan)の訪問でした。

アステアがマイケルのムーンウォークをモータウン25周年記念番組で見た後、彼に電話で賛辞を贈ったのは有名ですが、その後マイケルを自宅へ招き、その際ムーンウォークを直伝され、すでに80才を超えていたにもかかわらずすぐにマスターしてしまったというのも有名なお話です。
その場に一緒にいたパンもムーンウォークをしたそうです^^

パンは、アステアトリビュート1色のSmooth Criminalの撮影現場を見て、こう言いました。

If Fred was here right now, he would be in his glory.
「もし今フレッドがここにいたら、どれほど誉れに思うだろうか」

アステアと昵懇の間柄であるパンからこんな風に言われたマイケルは、それこそ有頂天になるほど大喜びをしたとか。
(source:http://www.readperiodicals.com/201103/2425294751.html)

00_MJ_Stranger-In-Moscow-11205138-800-1070.jpg
こんな感じ?イエーイ!みたいなw

彼の喜ぶ姿を想像しただけで嬉しくなりますよね。

話を戻して。

マイケルは確かにアステアに敬意を表して、彼への全面的なトリビュートという意味で、先のメモでもわかる通りアステア主演の映画BAND WAGONからThe Girl Hunt Balletを随所に意識した衣装や演出、振付でSmooth Criminalを構成しています。

ですが、撮影の半年前、1986年7月にこのBAND WAGONの映画監督であったヴィンセント・ミネリが亡くなりました。
この映画監督の娘であるライザ・ミネリととても親交が深かったマイケルは、葬儀にも参列しています。

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マイケル、ライザの義理の母・リー、ライザ


アステアのトリビュートとして、BAND WAGONを意識したマイケルが、その監督であり葬儀にも参列したヴィンセントへのオマージュとして、このSFを捧げようとしたならば、Criminalジャケットに追悼の意を表して黒の喪章をつけてもおかしくありません。
そして、洋の東西を問わず、喪章は左腕につけるものなのです。
ヴィンセントの娘であるライザは(ライザの母は若くして亡くなったジュディ・ガーランドです。後にマイケルのDANGEROUSダンスコンセプトに影響を与えたといわれている彼女の「Get Happy」。The Way You Make Me FeelのBoom!ポーズも出てきます)、マイケルにとってエリザベス・テイラーと並んで親友と呼べるほどの仲なのはご存じのとおり。

00_elizabet_taylor_michael_jackson_625_jlp.jpeg
しかしこれほど3者三様に目線が違うショットって言うのもww 自由だよなーみんなw

その親友のお父様であり、さらには敬愛するアステアの魅力をスクリーン上に存分に引き出した偉大な映画監督であったヴィンセントに、最大限の弔意を表したかった、その気持ちが本来親族しか巻かない喪章をつけた衣装で臨もうとした事に表れているように思えます。

ですが結局、いくらなんでも喪章はちょっと、ということで、衣装のアクセントとしての腕章に変わったのではないかなと。
彼の「子供たちを守る決意の表れ」とされている右腕の腕章。
確かにそういう意味合いもあるでしょうけれど、おそらく最初に彼の頭に浮かんだイメージの元になったのは、先人への純粋な追悼の気持ちだったのではないかと、Criminal Jacketメモを見てひとりガッテンガッテンしたりしたのでした^^


それにしても

get my Kenny Shoes Now To Break them in
ケニーシューズを今から穿きならすこと



このKennyが全く謎で。
マイケルといえばpenny loafers(ペニーローファー)。
まさかPennyとKenny間違えた?てことはないか、やっぱりw

踊りやすさで愛用された靴は、有名どころでは
Florsheim(フローシェイム)のFlorsheim Como
BASS(バス)のWeejuns
SEBAGO(セバゴ)SEBAGO Loafer

80年代はおもにBASSのウィージャンズを愛用していたようですね。
こちらの公式HPでも1984年「We Are The World」録音時に着用、と書いてあります。
00_1984_Wearetheworld_Bass.jpg


SEBAGOも早い時期から穿いていたようですが、2001年の30TH Anniversary Celebrationでも着用。
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Rock my world, Billie Jean と読めるので、この2曲のパフォーマンスで穿いたのでしょうか(単純に考えすぎ?)

同じ日のリハーサルでは、Florsheimを穿いているのですけどね・・
00_MJShoes1.jpg
MSG(マジソンスクエアガーデン)Rehearsalと書かれています。おそらくこれは衣装のBush氏が書いたもの。マイケルのサインは本物。

Florsheimは完全にレギュラーポジションだったようですね。
特にHIStory期はOnもOffもたいがいここの。
お馴染みのこちらもFlorsheim
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この靴の初めてのお目見えは、伝説のDANGEROUSパフォーマンスの1995年のMTV Video Music Awards。その後1999年のMichael Jackson and Friends charity show(韓国・ドイツ)でも活躍。

でも黒のローファーってほとんど同じに見えるので、例の「My Kenny Shoes」がどこのものかは、実際マイケルの穿いているのを無理くり脱がせてタグを見なければわからないw
あれやこれやと手を変え品を変え調べていたのですが、結局挫折して謎のままです。
どこのものか、なんて、まあ興味ない人にはどっちゃでもいい話なんですが、常に最高のパフォーマンスをしたい彼と靴の関係は、安心して身をゆだねることのできる最良のダンスパートナーとも言えますので、わざわざ決意表明のように「今から穿きこなして」なんて書くほど、完璧なコンディションで本番を迎えようとしていた彼の意気込みが投影されたローファーって、どんなのだったのかなと興味津々なんですね、わたしw

ご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたいです^^


こんな風に1枚のメモから、Kenny Shoesを探せ!的に、やたら靴ばっかり調べていたわたしなのですが。

検索が下手なのか手がかりが何にもヒットしないことから、もーいーや・・と挫折していた時に、ひょんなことからSmooth Criminalとは全く関係ない1足の靴を見つけました。
初めはお目当ての目的からはずれた靴なので、「ふうん・・」といった印象しかなかったのですが、ところがどっこい。
この何の気なしに知った靴から、実はさらにマイケルの
"Study the greats and Become greater"ぶりを、イヤというほど見せつけられてしまうことになるのですが・・


長くなりました。

続きます。

Michael and Joe そして父を想う

アテンション、プリーズ!\(^o^)/
今回はもう「続き」とかしませんでしたけれど、んもう、いつにも増してそれはそれはダラダラと長いっすw
忙しい時や余裕のない時はお読みにならないことをお奨めします、いやほんま。
怖いもの見たさのさらに暇で暇でしかたなかったの♪という場合のみ、読み進めていただけたら嬉しいです^^



前回、前々回の私事記事に沢山の「拍手」とコメントをありがとうございました。
前にも書きましたが、FC2拍手コメントで非表示コメントをくださった方々には、お返事ができなくて大変申し訳ありませんでした(/_;)
全部きちんと読まさせていただきました。
大変力づけられましたし、嬉しくありがたく思っています。
本当にありがとうございましたm(__)m



おかげさまでもうすぐ49日。
短いようで、遠い遠い昔のようで、現実なのにどこか夢のようで、いまだに父は入院でもしているかのように感じる時があります。
しょっちゅう怒っていた父ですが、遺影ではいつ見ても優しく笑っているので調子が狂いますw

父は本当にきっぱりと決めて想いを残すことなく旅立ったようで、あれから一度も、家族の誰の枕元にもやってきません。
でもそれでいいとわたしは思っていて。
変にわたしの枕元に立たれて「akimよ・・わしはほんまはなぁ・・」みたいなこと言われた日にゃもうどうしていいやらわかりませんからw


00_whiteFlower.jpg

父のために自分の仕事も都合も旦那も(笑)何もかも投げうって、ひたすら父を中心に、父のことだけ考えた半年でしたが、それができたことは娘としては本当に幸せだったと感じています。
どれだけそばにいてあげたくても、なにくれとなく看護してあげたくても、独立して自分の人生を生きるような年代になれば、自分自身の家族の都合や距離やいろいろな諸事情で、どうしてもそれはかなわないという人がほとんどだと思うから。


もう父の薬のために病院へ行くこともなく、時間を気にして父の元へ通うこともなく、不慣れな痰吸引や点滴の着脱などの処置にあたふたしたり、不手際ゆえ怒られて辛い気持ちになることもなく、ああだこうだと時たま理不尽にも思えるじいさんの要求に必死で駆けずり回ることもなく、さまざまな電話連絡や訪問に対処することもなく、母からの電話にびくびくすることもない・・
ある意味、そんな非日常は、この世で「おとうさん」と呼べるたったひとりの存在を失うことで終わりをつげ、わたしに日常がかえってきました。

以前の日常と少し違うのは、淋しさというおまけがついたことですね。


でもそれもいつしか、その淋しさも込みの日常となっていくのでしょう。
人は誰でも、遅かれ早かれ、立場は様々でしょうけれど、当たり前のようにそこにいてくれた存在を失う痛みを味わうことが宿命。
それも織り込み済みの人生なのですものね。

マイケルを想うのと同じように。



わたしと父との確執は、というか父はどう思っていたかわかりませんが、わたしは父が苦手で嫌いで、できるだけ近づかないようにしていたほどだったのですが、幸いなことにわたしの主人がそれはそれはできた人で(笑)
わたしのかわりに父と沢山おしゃべりしてくれて、一緒に出掛けてくれて、旅行も連れてってくれて、お酒もつきあってくれて、趣味も共有してくれて、父は本当の息子のように彼を信頼し大切に思って、要は大好きだったと思うのですが、そういう人がいてくれたおかげで父に淋しい思いはさせずにすんでいました。
最期の日々によく父はわたしに、「お前の一番の功績は、あの旦那をつかまえたことだ」と言っていましたからw

そう
そうよね
本当は娘であるわたしがすることだよね
でもわたしにはできないよ
しょうがないんだよ
できないんだもん

心の中でそうつぶやいていました。
わたしはどうしても父とそんな風に接することができなかったから。


わたしは父に甘えたことがなく、父も甘えさせてはくれず、いつしか大人になる頃にはたまに父が優しい言葉をわたしにかけても、「今さら」と素直に受け取れず、それどころかその優しい言葉も胡散臭くさえ思えて拒絶するありさまでした。

子どもだった頃、父にとても迷惑をかけたことがあり、わたしはさんざん父からお説教されたのですが、最後に父に抱きついて泣いて許しを乞おうとしたのですが、その時父に簡単に突き返されたことがありました。
それが決定打だったように思います。



あたし

おとうさんに嫌われてるんだな



という。

求めても得ることがかなわないものは、あきらめて、そうしていつしかそれ自体を拒絶する。
そんな感じだったように思います。

まだ若い父が笑顔で赤ちゃんのわたしを抱いているものと、3歳のわたしと父がどじょうすくいの真似をしている(海苔のちょび髭をふたりともつけてw)写真。
この2枚の写真だけが「父に可愛がられた」と思える唯一のものでした。
抱っこされたことも二人で踊ったことも覚えていませんでしたけれど。

マイケルがオックスフォードスピーチで語った言葉。
マイケルが「カーニバルでポニーに乗せてくれるために自分を抱き上げてくれたこと」と「大好きだったドーナツをこっそり買ってきてくれたこと」のたったふたつの出来事を、父であるジョーと自分を親子として繋ぐ数少ない「良い思い出」として挙げていることが、どうしたって自分とかぶりました。

ジョーが幼い自分に「あの契約書にサインしたのか?」などと言わず、「今日は映画にでも行くか?」と言ってくれさえすれば、父と自分はもっと違う関係になれたのに、というマイケルの言葉は、そっくりそのままわたしにもいえる言葉でした。

「おまえのここが至らない」とか「お父さんの子なのにどうしてこんなことができない」とお説教されることよりも、泣いて抱きついたわたしを受け止めてくれさえすればよかったのに、と。



前回も書きましたが、父が自分で旅立つことを決めて「さよなら」をわたしに告げた時に、父はわたしの頭を「いいこいいこ」するように撫でてくれました。

わたしはその瞬間に小さな子供にかえっていました。
何十年もの間、ほしくてほしくて、でもどうしてももらえないと思っていたものをついに手に入れたような気がして。
わたしの中の小さな女の子がわんわん泣きながら叫んでいました。



わたしはおとうさんにこうしてほしかったんだよー
ずっとずっとずーっと

ただこうやって

いいこだいいこだって

かわいがってもらいたかっただけだったんだよー




わたしの中で叫んだ小さなわたし。

マイケルが話した言葉。

But it all begins with forgiveness, because to heal the world, we first have to heal ourselves.
And to heal the kids, we first have to heal the child within, each and every one of us.
As an adult, and as a parent, I realize that I cannot be a whole human being, nor a parent capable of unconditional love, until I put to rest the ghosts of my own childhood.

すべては赦すことから始まります。なぜなら世界を癒すためには、まずはじめに自分自身を癒さなければならないからです。
そして子どもたちを癒すためには、まず私たち一人一人が、自身の内なる子供を癒さなければなりません。
大人として、そして親として・・私は自分の幼少時代の幻影に終止符をうつまでは、調和のとれた人間にも無償の愛を与えることのできる親にもなれないと悟ったのです。


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マイケルの言う内なる子供とは、わたしの中にも存在した、「傷ついた幼い自分の心」のことだったのかもしれません。
その心は、父親と離れさえすれば癒されるというものではありませんでした。
マイケルのスピーチに心を動かされたことで、父を責める事に支配される人生をやめて、そうとしか接することができなかった父を認め、受け入れ、赦そうと決めたからこそ、わたしは父親と向き合う覚悟ができきました。
がっつり向き合ったからこそ、幼いわたしを傷つけた(父は何の自覚もなかったと思いますが)、まさにその人の手で、その傷ついた小さな子供は癒されたのでした。
もしも父を拒絶してそこから逃げていたなら、今わたしは結局相容れなかった父を思ってきっと後悔していたでしょう。
さらに、もうどうやっても癒されることのない小さな心は、相変わらず苦しんだままだったかもしれません。


この話を友人にしたところ、彼はこう言ってくれました。
「akimちゃんがずっとそうして欲しかったんと同じように、おとうちゃんもずーっとakimちゃんにそうしたかったんやなぁ」


おとうちゃんも、ずーっとそうしたかったんやなぁ



そうかもしれないと思える自分がいました。


いちいち未熟なところばかり目立つ娘に、先行きを心配するあまりつい小言ばかり口を突いて出てまう
でも外人じゃあるまいし、なんかあると抱きしめるなんちゅー恥ずかしい事できるかい

・・みたいなw
昭和一桁の人でしたから・・。


父との雪解け、つまりわたしの中の内なる子供の心が癒された結果、愛された赤ん坊だった時に純粋に感じていたであろう父親に対する掛け値なしの信頼と愛情というものを、大人になってしまった自分が本当に心から実感できたというこの奇跡にも似た経験は、父の死が刻々と迫る最後の日々という「非日常」の中だったから得られたのかもしれないと思います。
それはとても残念ではあるけれど。


でもこのことはよほどわたしの精神に影響を及ぼしたようで、先日前述の友人夫妻の紹介で110本のカラーボトルの中から直感で4本を選び、それをもとに自分の性格、心理状態、才能、未来の可能性などを知ることができるという「オーラソーマ」と呼ばれるカラーセラピーを受けに行ったのですが。
和歌山にあるサロン(オーラソーマサロン・ダルカマーヤ)で、とても綺麗なセラピストさんでした^^

そこで直感でわたしが選んだカラーボトルから読み解かれたメッセージは、ちょっと驚くものでした。
もちろんセラピストの方とは初対面ですし、事前にいちいち「えっと~あたし最近父を亡くしまして~長い間仲が良くなかったんですけど~」みたいな話などするわけもなく、生年月日を答えたらすぐに「ではボトルをお選び下さいね」で始まったわけで。

セラピストさんの口からこぼれる癒しのお言葉の中に、「インナーチャイルドを癒す」というのがあって。
どっひー!まさにわたしの中で、それ旬なんですけど!みたいなw
わたしがそのメッセージを表しているボトルを選んだようなのですね。

00DSC_0215.jpg
サロンのHPに載っていましたw わたしの選んだボトル^^


ご自分や周囲を赦し、受け入れたことで大きな浄化が起こり、あなたのインナーチャイルドが癒されています。
"あなたはすべてのものに護られている"とボトルがメッセージをくれています。
大きな変化を楽しみ、沢山の喜びを感じることで新しく生まれ変わります。
自己価値を信頼し、あるがままに自分を愛してあげてください」
とセラピストさんにリーディングしていただきました。

父からはお説教や小言、叱られることが多かったわたしは、父から愛されていないと思い込み、それが大きな要因だったのかもしれませんが、長い間、自分に自信が持てない人間でもありました。
人から認められたい、好かれたい、優しくされたい、愛されたいと願いながら、少しでも好意的な言葉をかけられるとどぎまぎしてあたふたして、「ひー、そんな、あたしなんか、とんでもございません!」と全力で否定することに精力を注ぎ、かと思えば自分に否定的なジャッジが下される事を極端に怖がり、少しでもそんな気配がありそうな人には絶対に近寄らない、無意味なプライドの高さだけはいっちょまえという、何とも面倒くさいやつでした。

自己価値を信頼する・・

まさに自分に欠けていた要素。

それが、あの時父が「いいこいいこ」と頭をなでた瞬間、「わたしがわたしのままでも父は愛してくれていたのだ」と実感できたことで、父のみならず自分自身をも赦すことができ、「価値のない自分」から「愛されるに値する自分」をようやく受け入れることができたのではないかと。

セッションの途中なのに、泣き虫のわたしの目からぼたぼたと涙がこぼれました。
そして言わずにはいられなくなり、優しいセラピストさんにそこでようやく、父のことを話しました。
そして自分が父への接し方を改めようとしたきっかけとなった、マイケルのスピーチを話したところ、ドン引きもせず彼女は真摯に耳を傾けてくださって、「マイケル、素晴らしい方ですね」と。

そうなんです
マイケルのおかげなんです


It all begins with forgiveness, because to heal the world, we first have to heal ourselves.
And to heal the kids, we first have to heal the child within, each and every one of us.

すべては赦すことから始まります。なぜなら世界を癒すためには、まずはじめに自分自身を癒さなければならないからです。
そして子どもたちを癒すためには、まず私たち一人一人が、自身の内なる子供を癒さなければなりません。



今自分の心が驚くほど静かで、湖畔の凪ぎのように平穏な理由は、父との何十年にもわたる確執が浄化されたことにほかならず、その恩恵は心から父を誇らしく思え、彼の全てを懐かしく恋しく思うことができて、そして他者からの好意を素直に受け入れて感謝することができ、今まで以上に何気ない日常を慈しめるようになり、そうしてほんのちょっぴり自分のことが好きになったことでしょうか・・。




スピーチの中でおとうさんが欲しいから父を赦したいと語ったマイケルですが、実際には頭ではそうしたいと願って、いえそうしたはずだったでしょうけれど、スピーチから1年後の2002年に収録された忌まわしいバシールのインタビューではまだジョーへのわだかまりを感じていたようです。


He didn't allow us to call him ‘Daddy’ and I wanted to call him 'Daddy' so bad.
He said "I’m not Daddy I'm Joseph to you!"
And I totally forgive him for all of it, you know, you have to・・but・・
I don’t allow my children to call me 'Michael'. I say "I’m Daddy!"
It’s just the opposite.

父は僕らが「ダディ」と呼ぶのを許さなかったけど、僕は「ダディ」って呼びたかったんだ・・すごく。
彼は言ったよ「お前たちにとってわたしはダディじゃない。ジョセフだ!」って。
まあ、知ってのとおり、僕はおおむね彼のそういう多くのことは赦してる。・・そうしなきゃ・・でも・・
僕は自分の子供たちが僕のことを「マイケル」なんて呼ぶのは許さないよ。「僕はダディだ!」って言う。
父とは全く正反対だよ。


(Living with Michael Jacksonより)



ご自身が親となり、愛する子供たちと日々を過ごしてなお消えない父への反発心と哀しみ。
このインタビュー番組(2003年2月)の2か月後に放送された、マイケル自らナビゲーションを務めた「Michael Jackson's Private Home Movies」では、1991年に撮影されたジョーのためのJoe Jackson Dayの様子を流し、ジョーが映ると

00_privatehomemovies_joe.jpg

The guy who taught me everything on stage.
ステージ上のあらゆることを教えてくれた人だ


と笑顔で語り、チンパンジーと一緒に座るジョーが映ると


00_privatehomemovies_joeanimals.jpg

See, my father loves animals.
I think that's where I get my love for animals from.
見て、僕の父は動物が大好きなんだ
僕の動物好きは父から受け継いだんだと思うね


と穏やかに語ってみせるマイケルですが。
(via YouTube 「Michael Jackson's Private Home Movies Part 6」

父が元気な頃、父と似ているなんて言われるのが一番嫌だったわたしからすれば、わだかまりがあればとても言えないセリフです。
でも、マイケル・ジャクソンとしては、ここは穏やかに父とのいい関係性をアピールしたかったのかどうか・・。

人間マイケルとしては、ジョーとの問題はそう簡単には解決できなかったかもしれず、もしもそうならば、わたしだけではなく沢山の方がそんなやっぱり聖人君子的ではない人間臭いマイケルに、さらなる親しみと共感を感じてしまうところではないでしょうか。

でも最終的にはたしてマイケルが本当にジョーを赦すことができ、自らの内なる子供を癒すことができたのかどうか。

それはわたしなんかには到底わかるはずもないわけですが・・


ただ人はなかなか普段通りの日常の中では、たとえ家族といえど、いえ、家族だからこそあらたまってその関係性を見つめなおしたり、熟考したりすることは難しいのではないかと思います。
逆を言えば先に書いたとおり、「非日常」の中でなら、自分の気持ちが180度変わるような大どんでん返しもありうると。
普段頼りないお父さんが、台風とかの停電時に頼もしく家族を守ったことで見直した、みたいな事をよく聞きますものね。


マイケルでいうと、2005年の裁判。
これは本当に彼にとっては必然でもなんでもなく、人生の中で最も無駄で馬鹿馬鹿しくおぞましい出来事でしたが、その期間中、出廷時にジョーと一緒に歩くマイケルの姿は何枚も写真に撮られていますね。
そこにあるマイケルの笑顔。
心身ともに疲弊する毎日の中でジョーと一緒に並んで歩く彼は、心からジョーを頼もしく思い信頼し、そして安心しているように見えたりもします。

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2004年に始まった予審のさなかの8月30日、マイケルの46歳のお誕生日を祝おうと(表向きはエホバの信者であるママや長姉リビーの手前、単なるファミリーデイとしての集まり)家族が集まります。
苦難を背負いながらそれでも毅然と戦うマイケルに、つかの間のリラックスと家族がそばにいる安心感を与えるためのディナーでした。

この時のことを、姉ラトーヤが自身の著作(Starting Over)で綴っているのですが。

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ここからはちょっと脱線します。
はなはだこの本は賛否両論評価が分かれ、といいますか、ジャメインもそうですが家族の書いたものは必ず賛否が分かれるのです。
特にジョー・ラトーヤ・ジャメインのものは、批判が多い。
かつてマイケルを少なからず傷つけた、とされる過去を持っている3人だからでしょう。

わたしはマイケルが大好きですから、もちろんマイケル側で物事を見がちです。
マイケルを中心に考えれば、家族は誰であっても脇役でしかないと感じてしまいがちです。
ですが、ジョーにしてもラトーヤにしても、ジャメインにしても、彼らの立場になって考えると、主役はあくまで自分であって、確かにマイケルは自分の人生に多大な影響を及ぼしたかもしれないけれど、いくらマイケルといえども彼ら自身からすれば脇役の一人です。
彼らは彼らの人生を生きているのですから、マイケル自身の身になって考えるというより、あくまでラトーヤ達の目に映ったマイケルですし、ラトーヤ達の思うマイケルの心情です。
マイケルがこう言った、ああ言った、それは確かにそうかもしれず、でもその時のマイケルの本心はどうだったかはマイケルにしかわからないことです。
ですが、家族に限らずマイケルとの思い出を語る人は皆、「~と彼は思っていただろう」という、自分好みの主観を書きます。
彼らからすればそれはあたりまえの描写です。
そこが、マイケル中心のファンの気持ちを逆なでる場合もあり、賛同できない部分として批判の的となる時もあるのですね。

でもわたしは以前にも書きましたが、そういうストーリーは書き手や話し手の主観に基づくという大前提でいつも見ているので、それらの膨大な情報に気持ちを引っ張られることはないのです。
そういう見方もあるのだなとか、そういう事があったのだなという、どこか歴史書や伝記を読むのに似ています。

例えば、織田信長中心で書かれた記述は、明智光秀寄りの人たちにすれば反論したいことが山ほどあるでしょうし、逆もしかりでしょう。
わたしごとで言えば、わたしは今回このように父との事を、わたしの視点で書いていますが、父からすればまた違う意見があったであろうと思うのです。
そういう意味では、一つの物事を多角的な視点から見るという、時には冷静な見方も自分には必要だと思っているのですね。


----------------------------------

ずいぶん脱線してしまいましたが、そういうわけで、Amazonのラトーヤ本のレビューは辛口が多く、「本当は星なんかつけたくないんだけど」的な人が結構いらっしゃって。
その中に「くだらない。あなたのお金を使うことはないわ。沢山のタブロイドの焼き直しよ」というレビューを書いた方が、お金を払わずにいいように(笑)チャプターごとにどんなことが書かれているかをかいつまんで紹介してくれています(苦笑)
そこに、「あれ?・・やっぱりひょっとして・・」という記述があったので、それをご紹介します。

Chapter 29: The Trial of a Lifetime
(中略)
August 2004 family get together for Michael's birthday. First time Latoya saw Michael since pretrial in January.
Michael calls Joe to sit next to him, Latoya says Joe was a special force of power for Michael and Michael felt Joe protected him.
2004年8月 マイケルのお誕生日に家族は集まります。ラトーヤがマイケルに会うのは1月の予審以来でした。
マイケルは自分の隣に座るようにジョーを呼びます。ラトーヤは、マイケルにとってジョーは、自分の中の力の元となる特別な存在だったと言います。そしてマイケルはジョーに護られていると感じていたとも。

(引用終わり)http://www.amazon.com/gp/cdp/member-reviews/AKTKUZ1SQ4KI8?ie=UTF8&display=public&page=2&sort_by=MostRecentReview


マイケルがその時ジョーをどのように思っていたか、どう感じていたかは、あくまでラトーヤの主観でしょうけれど、そんな風にみてとれたということは、少なからずマイケルはジョーにおびえていたかつての彼ではなかったのではないでしょうか。
マイケルが自分の隣に座ってとジョーを呼ぶ・・
自分がジョーの隣に行くならまだしも、隣に座ってもらうために声をかける・・積極的ですマイケル!
これがラトーヤの見た幻でなければ(笑)、彼らの確執を知る人たちの目にはどれだけすてきな瞬間にうつったでしょうか。


ジョセフ!こっちこっち!僕の隣に座ってよ!


・・とか?w
Michael calls Joe to sit next to him
たった1行のこの記述が、わたしをあたたかい気持ちにさせてくれました。
(この本・・買っちゃおうかな・・ここんとこの詳細見たいしなー・・でも全文英語って絶対吐くよな~w
とかいって全然違ってたらどうしょう、本当にラトーヤの幻覚だったらどうしょうw)


このようなことがあっての、翌年の裁判中のマイケルとジョーだったのなら、ジョーに向けたマイケルの笑顔は、やはり本物であったのではないかと思えますし、わたしとしては、裁判という「非日常」の中でマイケルもジョーを父親として、頭だけではなく心から受け入れることができたと思いたいのです。

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少なくとも、彼から多くの人が離れたあの裁判中に(ファンは別)、ジョーもラトーヤもジャメインも、マイケルを支えようと常にそばにいたことは事実。
過去にいろいろあったかもしれないけれど、マイケルの生涯で一番最悪なその時に、そばにいて励ましてくれる兄や姉、そして特に父を、丸ごと心から赦し受け入れたとしても不思議ではなく。

辛い時期であったけれど、その中で数少ない「得るもの」があったとするならば、そのうちのひとつに自分を護ろうとする「おとうさん」の愛情が本物だと感じることが、できていたことを願わずにはいられず。


長い間寂しかったわたしの中の小さなわたしがようやく癒された、そのきっかけを作ってくれたマイケルご自身も、いえ、わたしだけではなく沢山の人がきっと救われたり学べたり幸せを感じたりしたであろう珠玉の言葉を贈ってくれたマイケルこそ、彼の内なる子供がどこかできちんと癒されていますようにと、心から祈らずにはいられないのです。


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今頃父もマイケルも

勝手なこと言って・・と苦笑いしているでしょうか


もううんざりするほど長くて、しかも今回もどことなく湿っぽくなっちゃって
ホントすみませんw

ここまで我慢して読んでくださった方に今日も感謝を^^


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gonpee2008

Author:gonpee2008
名前はakim
家族は主人と猫のゴン&ピー
いたってノーマル・・だけどMJバカw

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